人の価値は、どれだけ責任が取れるかということです。後始末ができるとうことは、責任が取れるということ。正確には、責任を取れるくらい「力」があるとうこと。責任が取れるくらい自立して、初めて、モノが言える。初めて、同じ土俵に立てる。
命を懸けているから、嫌いなことで人生を埋め尽くしている。他人にどう見られるかを考えていると、「自分」というものが抜けてくる。それは、我慢を強いられるから。「我慢」の意識下では、「自分を否定している」ということになる。世間によく見られたい人は、「自分には嫌われてもいい」ということになる。千田琢哉曰く、「嫌なことをやって生きている人は、 『こんなに自分は嫌いなことを我慢してやっているのだから 認められて当然』と傲慢になっていることだ。」
「雑用はチャンス」あらゆる雑用を、芸術的に仕上げることで、一目置かれる。「コイツに雑用なんかさせてはもったいない。」と思わせることができる。そうなれば、雑用を卒業できる。千田琢哉曰く、「一日も早く雑用のエキスパートになることだ。」
「仕事」は、した気にならないようにしよう。「した気」」というのは、曲者です。本人は当然「仕事したぞ!」と思っているから偽りにはならない。けれど、無意識の罪は罰せられない分、より罪が重い。「した気」はあくまで主観の問題。成果が出た時のみ、「仕事したぞ!」と思っていいです。
発信しない。今日の名言のように、誰かが幸せにならないことは、「実は正しくない」のです。暴露して白黒はっきりさせたが、誰も幸せにはならなかった。正論を言い続けて、誰かが不幸になった。言わなくていいことは、言わないでいい。言っていいことも、言わないでいいくらいです。