一見、欲深くなく、さっぱりとしてる感じがする。しかし、本質は逆にある。「どっちでも」ということは、「自分で選択できないので、あなたが決めてください」というねっとりした依存だった。実はどっちでもいいのではなく、どっちも嫌なのだ。どっちも嫌だから、相手に選択を委ねてしまう。本当に好きなものなら、自分と一体化させたいのが人間。
それは無意識のレベルの努力なのだ。「無意識のレベルの努力」それは、もう努力ではなく、日常生活行動。もはや、体の一部と化している。それを周りが「努力!」と言っている。体の一部として取り込めないのは、自分の遺伝子が抵抗している証。やりたくないなら、やらなければいい。やりたかったら、やればいい。
負けなのだ。「私と○○と、どっちを取るの?」お決まりの名ゼリフがある。迫った瞬間負けてしまう。つまり、迫らない方が勝ち残るということ。人間は自由を求めて生きている。迫るということは、自由とは対極。自分を取って欲しかったら、自由を与えること。自由を与えた結果が、本来の姿。
理由は自分で考えろ」今は効率の時代。一人一人が機能しなければならない。つまり、答えが解らない人に、答えを教えなければならない。勿体ぶっている暇ない時代。けれど、その答えになる「理由」は自分で考えなければならない。その理由は仕事をこなしていくにつれて解ってくるから。点と点が繋がる感覚。全て教えたら、身につかない。全て教えたら、面白くない。
独りで落ちぶれていくよりも、ずっと質が悪い。独りなら、必死になり回避できるかもしれない。けれど、集団だと気持ちが大きくなって、危機意識が無くなる。それ以前に、集団の中にいたら落ちぶれていくことに気が付かないかもしれない。気が付いたら、沈んでいた。なんてことに。安全の中のキケンは気づきにくい。