「やりたいから、やる」で始めた人が成功するのだ。何かやり始めるときに、「やりたいからやる」これ以上の理由はありません。理屈がないと始められないのは、面倒くさいからかもしれない。理由がないと始められないのは勇気がないからかもしれない。本来、やりたいことは当にやっているもの。やっていないのは、本当はやりたくないからかもしれない。
肯定で包み込むのだ。『肯定で包み込む』「でも認めたら、負けじゃない?」いいえ、千田琢哉曰く、「批判した相手は拍子抜けして、それ以上批判できない。 周囲でそれを見ていた人たちは、批判した相手の方を格下。 そして、批判を肯定したあなたを、格上とみなす。」確かに、論議の正否より、受けた印象のほうが強い。「肯定で包み込む」とは、相手の力をそのまま利用する「合気道」のようです。
自分が臆病者であることを、最も受容している人間だ。自分の弱さを認めたものが、勇者だと。それはなぜか?自分の弱さを認めることは、一番勇気がいるからです。相手の強さを認めることよりも、もっとハードルが高い。自分だけは、どこか特別でいたいと思っている。けれど、本当の実力は自分が一番わかっている。それを素直に認めることの勇気。
生きてやろう。・・・明言。「死ぬまでは生きてやろう」この言葉にはじまって、この言葉に終わる。人は死に対して、消極的にならざるを得ないからあえて、積極的に生きてやる。どうせ死ぬのなら、死ぬまでは生きてやる。するとこんな感情が沸いてくる。千田琢哉曰く、「朝目が覚めたら、手のひらを合わせて ありがとう。」
「私が一番、あなたが二番」ということになる。千田琢哉曰く、「矛盾だらけのこの世を俯瞰してみるのだ。 するとすべての矛盾は辻褄が合っていることに 気づかされる。」誰かにとって、矛盾しているけど、誰かにとって、都合がいい。誰かにとって、都合がいいけど、誰かにとって、矛盾している。誰かにとって、不合理でも、誰かにとって、理にかなっている。俯瞰すると、平等。
指導されていることに気づく。指導しているということは、指導しなければならない状況があるということ。その状況をつくってくれたのは、指導される側の部下だったのです。その部下が優秀なら、そんな状況に巡り会えなかった。手の焼ける部下だったから、自分に指導力がついた。当たり前のことも、掘り下げると実は自分が助けれていたことに気づかされる。
無限の富を生み出す源泉なのだ。独りの時間と聞くと、ネガティブに捉える。それは、恐れているだけかもしれない。それは、群れていないと、不安なのかもしれない。お金持ちは、この「独りの時間」こそ大事にすると千田琢哉曰く。「平日に存分に遊んでいるので 休日くらいは独りの時間を堪能したいのだ。」
5回先人式を迎えることができるということだ。なるほど。成人式が5回。それが人生だと。単純に年を取るのではなく、1回目の成人式、2回目の成人式というように、青春が20年毎にやってくる感じ。千田琢哉曰く、「人生の初心者たちが『よし、自分たちも長生きしよう!』と 熱くなることができる。」
ここだけの話、自分の土俵で活躍するのは、生き地獄ならぬ、逆を言えば、自分の土俵で活躍できなければそれこそ、生き地獄だと言える。自分の土俵ではないのに、しがみ続けていると生き地獄だと言える。そう考えると、いかに自分の土俵探しをするかが運命の分かれ道です。自分の土俵を見つけるには、好きなことをやるのはもちろん。同時に嫌いなこともやってみないと土俵は見つからない。人事尽くして、天命を待つ。
偽善者になるくらいなら、「いい人を演じる人」は、いつか必ず地が出る。今までの「いい人度」が全部チャラになる。チャラになるどころか、マイナスに振れてしまう。「悪人ぶる人」と、「悪人」は同じではなく、むしろ対極にある。「悪人ぶる人」は、普段は悪人だが、たまにいいことをすると、それだけで「いい人度」がマイナスから一気にプラスに向かう。「普段の行いが大事。」とはいうものの、まったく逆の現象が起こっている。
あなたに嫌われたくなかったから。「嘘つきは泥棒のはじまり」という。けれど、嘘をつかない人など存在しない。相手の為を想った嘘。関係を続けたいが為の嘘。相手の身代わりに嘘をつく。すべてが嘘。相手を騙そうとした嘘以外は、本来許されるべきものではないかと思います。
というのが、嘘偽りなき感情だった。理論上は矛盾しています。矛盾しているけれど、その矛盾を併せ持つことができるのも人間です。悔しさの中に、うれしさを感じる。千田琢哉曰く、「先を越された事実に対しては、 努力の中身と方向を大幅に変更するか 別の土俵で勝負するしかないと 気づかされたからである。」友人の成功のおかげで、気づかせてもらえた。友人は今の自分を顕在化させてくれた。
死別とは、別れることではなくということだ。死別したらもう、会うことはできません。けれど、死んでも「無」になるわけではありません。そこには、残るものがあります。残された者に、残るもの。それは「思い出」です。思い出は、自分が忘れない限り永遠に残る。その思い出が心に残ることが、「故人との一体化」だと。生きる者と、死ぬ者の一体化。
壁から逃げるということは、すぐ後ろに控えている人は壁にぶつかったとき、試される。逃げ出してしまう人。挑戦する人。逃げ出してしまう人は、目先に楽さを優先してしまった人。挑戦する人は、将来の楽しさを優先した人。その壁の後ろには、幸運が控えている。
使えない言葉がある。「挫折を経験すると、見える景色がある。」その景色を見なければ、「使えない言葉」がある。その言葉とは、「あの時の挫折のおかげで・・・」という「おかげ」の部分。つまり感謝の言葉です。挫折のおかげで、初めて感謝の言葉が使えるのです。
うっかり続いたことが、「うっかり続いたこと」と言うのは、何の苦もなくやってしまったこと。他人の半分の労力で、他人の倍の成果を出せたこと。そんな「うっかり」が神様からの贈り物。逆に、倍の努力をしても、半分の結果しか出ないのならそれはやってはいけないもの。僕たちは、やってはけないことを平気でやってしまっている。気づいていても、止められないでいる。
と言われる。「ありがとう」を伝えることの重要性は、わかりました。しかし、まだ先があるのです。「ありがとうを言われる存在になる」なるほど・・・「ありがとう」と言うほうより、言われるほうが遙かに難しい。それに見合うことをしなければ、言われることはまずない。
自分の才能が眠っていることに気づかされた。嫌いなことの中には実は好きなことがあったりする。むしろ、運命を変えるような体験ができるかもしれない。千田琢哉曰く、「自分でやりもしないのに拒絶反応を示した内容は 必ずすべて一度はチャレンジしてみたところ、 収入が跳ね上がった。」拒絶反応したところに、きっかけがある。自分が無理だと思っている中に、チャンスがある。
あなたの頭の中にある。娯楽とは「自分と向き合うこと」だと。普通に生活していて、「自分と向き合う時間」は希少です。仕事はもちろん、生活の大半は仕事をするためにある。自分との対話は、人工的に創り出すしかない。誰かの敷いたレールの上で考えるより、自分の敷いたレールの上で考える方が楽しい。自分と向き合う時間とは、自分の人生に語りかける瞬間なのです。
本当の無礼講など、存在しないと考えていい。無礼講とは、あって無いようなもの。無くてあるようなもの。無くてある場合、本当に取り返しのつかない事態になる。あって無い場合、無礼講と言った本人の建前ということ。人間はどこまで行っても、本音と建前でできている。無礼講になれるのは、無礼講でも許される存在。
携帯はアイデンティティーなのだ。携帯をいじっているのは、一言でいうと、手持ち無沙汰。何かをしている振りを装っている。実は、大したことはしていない。電車の中、揃いも揃ってケータイを広げている姿はお世辞にもカッコいいとは言えない。自分の自信の無さを浸隠しているように見える。
忘れない。自分という「親友」これ以上の存在はないし、これ以上の味方もいない。完全なる運命共同体。それが自分。どんなに嫌なことがあっても、いつも一緒にいてくれる。自分のやりたいことに、いつもつき合ってくれる。今ここに。ずっとここに。
出逢いも別れもご縁であると理解し、去る者に対しても、今、目の前にいる人だけが、出逢いではありません。今まで出逢って、去っていった人も出逢いです。出逢いがあれば、100%別れがくる。出逢いと別れはセットでやってくる。ただ、遅いか早いかの問題だけ。出逢った人は、出逢うべくして出逢った人、結果云々。
ここだけの話、年収400万は、いつでも、どこでも、年収400万の人がいるのは、年収400万の空間。年収400万の空間は、いつでも、どこでも、誰からも舐められる空間。舐められたら、400万の空間にいることがわかる。次元の話だから、言葉では理解できない。体験する他ない。
嫉妬の2文字が出てくるだろう。「嫉妬」は生まれてすぐに芽生える感情。そして、死ぬまで持ち続ける感情です。嫉妬が着火材になればいいが、ほとんどが、自分を蝕むことになる。昔は、「羨む」という字は、「心病む」と書いていた。つまり、嫉妬は自分の心を病気にしてしまう。
すでにおいしい人生だから、満たされていると関心が無くなる。すでに美味しい人生だから、美味しい話には関心がない。なるほど。自分の人生のほうが美味しいから、美味しい話は、さほど美味しくない。いつも美味しいモノばかり食べていては飽きてしまうアレです。
心底リラックスできる。「お金がすべてじゃない」と言う人ほど、お金を持っていない。本来このセリフは、お金を持った人でなければ言えないセリフ。けれど、持っていない人ほど、本気で言えてしまう。ネガティブな机上の空論。人はどこまで行っても、ないモノを叫びたがる生き物。
負け犬と呼ぶ。今日の名言を正確に言うと、「仕事を心底楽しめない人間を負け犬と呼ぶ。」になる。負け犬は、自分が負け犬だと思っていないところがあります。本当は気づいていたのに、忘れてしまっているところがあります。本当は気づいていたのに、慣れて心地良くなってしまったところがあります。ファーストインプレッションを忘れてはいけない。
お金をもらえる。言い換えれば、存在自体がお金のなる木。千田琢哉曰く、「年収3000万がいる場所にはいつも人が集まってきて お金を運んでくる。」人を引きつける魅力、実力が存在感。ただ生きているだけの人。ただ存在しているだけの人。すこし違う。