「ズル休み」から逃げてはいけない。「ズル休み」の強みは、単に休めることだけではない。本当の強みとは、「いざとなったら、休める」という安心感。この安心感で、強く生きられるのだ。何かのお守り的な、安心感。サラリーマンとしての強み。
「もうダメだ!」な瞬間は、精神の限界。そこから先の「ダメ」は、肉体の領域に入ってしまう。肉体の領域に入った瞬間、健康を害する。「もうだめだ!」と思ったら、ズル休みしても、合法的に許される。健康はすべてのはじまり。
あなたの幸せも、すべては繋がっているのだ。お金、家族、仕事、人生切り離して考えるから、幸せになれない。切り離して考えること自体が、不幸の始まり。すべては、ひとつなぎとして考える。欲張りはいけないと言うが、全て求めるのが自然の流れ。全体を俯瞰しながら、今に心を置く。
わけだから、「働き過ぎ」や「損得」と言った概念は無くなる。自分がしたいことなら、頑張らなくていい。自分がしたいことなら、努力しなくていい。自分がしたいことなら、素直に認められる。自分がしたいことなら、納得いくまでできる。自分がしたいことなら、後悔はない。いいね。
格上から格下に向けられるいやらしい行為なのだ。同情は偽善に過ぎない。人は、自分が当事者になって初めて感情移入できる。つまり、その同情は偽善に過ぎない。偽善すると、自分が少しでも報われた気になる。偽善は相手のためではなく、圧倒的に自分の為。
あなたの存在は邪魔だ。名言or明言です。邪魔だと感じたらor思われたら、そこから抜け出せばいい。一流を目指したいor目指せる場所を見つければいい。自分が若き日に没頭したor得意だったことを見つければいい。動き出さねば何も始まらないor終わらない。
ごく身近な日常のあなたの常識を変えることだ。人生を変えるためには、遠く先を変えなくてはいけないような気がする。けれど、逆でした。変えるのは、自分の足元。それも、ごく日常的に行っていること。それは自分が一番わかっている。
素晴らしい名言です。暗い気持ちにならないところがいい。「貸したお金は、あげたと思え」などと言いますが、どんなに前向きでも、やはり暗い。「厄払い」として考えるなら大納得。貸した額に応じて、飛躍できると思える。
自分に正直な言葉を使うということだ。自分の使った言葉が、その人の人生を創る。自分から出た言葉が、人生を創るわけではない。あくまでも、自分が使った言葉が先。つまり、人生はコントロールできる。コントロールされることも容易い、流されればいいのだから。
遅かれ早かれ、去っていく者は、去っていく。自分の人生は一大ドラマ。ストーリーが面白く展開していくために悪役は必要だ。ドラマの続きを早く観たいなら余分な部分は編集でカットしてしまう。必要なキャストだけ残さねば。
フラット目線で作るものだからである。フラット目線の領域が友達。ストライクゾーンが広いから大概は受け入れられる。そして、いざとなればすぐに辞められる心地いい領域。だから、似たような者なら誰でも歓迎だ。ハードルが低くて、ストライクゾーンの広い、安全地帯。成長が止まりそうだ。
必ず出世させたいと強く思う。イエスマンは、立場が変われば寝返る。その時だけ人間。誰にでもイエスマンだから。反論するが、ちゃんと動く部下は、自分の意思があって判断している。正当に判断できる相手なら信用ができる。
であり、「媚びる」というのは、自分のために一歩引くことだ。外見は似ていても、中身は全く正反対。自分の得を考えると、媚びてしまう。相手の得を考えると、立ててしまう。そう、立てる意識の上の立ててしまう意識が自然な立てる。普段の心の在り方がそのまま現実に映る。
通さないかの問題である。「我」が強いのは、問題ではなく「我」を通すことが問題だと言います。我が強くなければ、成し遂げられない。我が強くても、その我を通さないこともできる。つまり、それは「粋」なんだ。相手の気持ちを汲んで、赦してあげる小粋。
限られた人生において時間の無駄としか言いようがない。人は「好きなもの」が好きだとされている。けれど、現実は「嫌いなもの」が好きのようだ。「嫌いなもの」ほど、話題にのぼる。「嫌いなもの」の事ばかり考えていたりする。人間は無駄好き。
人はその答えを求めて修行に没頭できるのだ。1+1=2を人は求めたがる。けれど、人間関係は計算のようにはいかない。人間関係が、1+1=2で解決してしまっては、人間の成長がストップしてしまう。もがき、苦しむからこそ感動があり成長がある。素直に現実を見て、真向勝負。出た目が、人生。
克服しようとして、人間は成長していくことができるのだと感謝するくらいでいいのではないだろうか。義務教育では、さんざん好き嫌いを無くそうと教えられてきた。けれど、好き嫌いが永遠に無くなることはない。好き嫌いは、完全なる本能。好き嫌いと共存していくことが自然。その好き嫌いを反動に利用する。
相手はメロメロになってくれるのだ。人は第一印象で決まらない。第一印象と第二印象とのギャップで決まる。第一が「松」だと、第二を「松」以下には落とせない。第一が「梅」なら第二は「竹」もしくは「松」だと好印象。第一はごくごく自然体で第二から少しずつ、解放していくのが自然。