きっと原始時代のままだろう。人が死なないとしたら→死なないから何かしようとも思わない→変化を好まないから、現状維持→原始時代のまま人は命に期限があるから、必死に何かしたいと思う。何かを残したくて、必死になる。死ぬのが怖いから強く生きたいと思う。死ぬことがわかっているから大切にできる。
上手くいくようになっているのではないだろうか。うまくいかない時というのは、「自分らしくない」ことをやっていた気がする。「自分らしく」すらない。「自分」で生きれば、きっとうまくいく。うまくいかないくても、それは、うまくいっていることになる。あるがまま。どんなに取り繕っても世の中、あるがまま。
超現実的にならざるを得ない。本気で夢を追いかけるために、今ここからスタートする。遠い夢だからこそ、今、目の前の事をやる。遠い夢だからこそ、近い夢を達成していく。遠い夢の方向を向きながら、近い夢を達成する。現実的に今の事を成す。
毎日勉強することが必要だ。いつ死ぬか、わからないからこそ、何もしないのではない。いつ死ぬか、わからないからこそ、何かをする。結果的に、何も残らないかもしれない。けれど、人はその姿に影響される。意味のないものなんて、存在しない証。
本物の夢ではないからだ。もともと、夢というのは達成できないものだから「夢」という。達成できる夢は、目標でしかない。目標は、達成しなければならないもの。夢は、達成できないもの。終わらないから、終わらない。
いい言葉に出逢える。どん底人生でも、思い通りにならない人生でも、毎日が全然楽しくなくても、生きてさえいれば、何かに出逢える。それは、いい言葉だったりいい話だったり、いい笑顔だったり。生きていなければ、出逢えないものに出逢える。ただそれだけで、嫌なことはすべて帳消しになる。今日が人生最後の日でも、成仏できる。
神様のアイデア。「あなたの寿命は、○○歳までです。」と言われたら、人は幸せだろうか?いつ死ぬかわからない恐怖と、その日に確実に死ぬ恐怖は、どちらが怖いだろうか?もし、自分の死ぬ日が分かってしまったら、人生は楽しいだろうか?もし、その日が近ければきっと、投げやりになってしまうだろう。死ぬ日がわからないから、人は懸命になれるのだと思う。ナイスアイデア。
現在の延長線上のどこか遠くに死があると考える。こう続きます。「反対に腹の底から死を実感した人は、 死から逆算して現在を捉えている。」死を考えるとき、「未来」に死があると考える人、「今」に死があると考える人とに分かれる。未来に死があると、今を先延ばしにする。今に死があると、今を生きようとする。死に期日はないことを考えると後者が正解となる。
もう二度と逢えないこともある。そう、明日ほど不確かなものはない。明日・・・否、一秒後の保証すらないのに人は未来を確かとする。本当は、一秒後の世界なんて誰も予測できないのに。だから、今を生きる。今、この瞬間を一生分生ききる。一秒後、生きていたらラッキー。
無性に会社に行きたくなるものだ。学校をズル休みした時の感覚と似ている。「うわぁ、明日学校行きたくないな⤵」そして、ズル休みする。すると、翌日から学校に行きたくなる。会社と学校では、重みが違うが、本質は同じ。「然るべき」を無くすことで人は強く生きられる。
体はいつも誠実なのだ。体の反応は、自分の人生において常に正しい反応を示す。体は「原因と結果」のわかりやすい例だ。食べれば太るし、食べなければやせる。病気になるのにも、原因がある。それまでの、生活習慣を変えなさいというシグナル。
知恵には、限界がない。体力の限界は人生の中盤にかけて必ずやってくる。体は消耗品に過ぎないから。けれど、知恵の限界は死ぬまでやってこない。100歳で死ぬとしたら、100歳まで知恵は絞れる。体力の限界は、知恵でカバーできる。
知恵には、限界がない。体力まかせで、解決できることはあるが、体力には、限界がある。その限界を超えると、健康を害するのは誰もが分かっている。しかし、知恵には限界がない。むしろ、知恵を絞ることで、体力まかせだった労力を軽減できる。軽減できた時間で、次の知恵を絞ることができる。生産性も増す。
人生において、進化である。これは、歴史に残る名言です。皆、薄々は気づいていたが、プライドが邪魔をして、言い出せない言葉。体力が衰えると、未来を閉ざされた気がする。けれど、光の当て方少し変えて、体力が衰えたら、知力で勝負しないか?というサイン。そのまま体力が衰えなければ、知力の進化が無くなる。体力でできなくなったことを、知力でカバーできれば、どれだけの人が救われるか。
のは、生意気なヒラではなく、ヒラに徹するヒラだ。ヒラに徹する。つまり、ヒラを受容した人間はヒラの中のヒラとして生きていける。実力はヒラで、周りからもヒラ扱いされいる人間は、ヒラだとふて腐れて、ヒラを受容していない。その人間は、ヒラ以下となる。受容しないと、それ以下になるが、受容するだけで、それ以上になる。
1つの劇団で、それぞれの役職と役割を演じているのだ。気づかされる名言です。会社組織とは、劇団組織。とりあえず、私が社長で、あなたが部長、そこのあなたは課長、君は平ね。という風な感じで、何かの取り決めの中で誰かが演じているに過ぎない。その証拠に、代替えが効く。
無能でなくなる。無能を受け入れると、無能ではなく、それは才能に変化する。無能なのに、無能ではないと受け入れられない状態が無能なのだと。無能を受け入れたら、ただの無能になるわけではなく、無能なりの生き方が見つかり無能でなくなる。これは、すべてに言えること。自分は八方美人だから・・・自分は短気だから・・・自分は頑固だから・・・受け入れた瞬間、解消される。
変えなければならない合図。苦労して成功したことは、自分の才能ではない。楽に成功してしまったことが、自分の才能。つまり、今苦労しているのなら、自分の才能とは無縁の場所にいる。苦労そして、苦悩していたら、自分の才能とは無縁の場所にいる。何かを変えなければならない合図。
だけは裏切らない。「自分」と愛読書とあります。愛読書も、もはや自分の一部である。そして、最強にして、最高の相棒が誰でもない自分自身です。100%裏切らない、運命共同体。それが自分自身。いつもそばにいて、自分のわがままを受け入れてくれる。
試すことによって、ちょうどいい塩梅がわかるのだ。今の人生、うだつが上がらないのは、単に自分の選択結果が間違っていただけ。間違っていたのに、またも自分模範解答を選択してしまう。人生を変えたかったら、その選択肢を変えなければならない。いつも、「YES」と言ってしまうところを「NO」と言ってみる。その逆もあり。逆のキャラを演じることで、違った結果が出るはず。難しく考える必要はありません。「キャラ」なんですから。
物事を見ることができない。これは変えられない事実。変わらない事実。「この人、わがままだな。」と誰もが思っている。そこからスタート。自分が見ている現実は、やはり、自分の都合のいいように創られている。やはり、ここからスタート。
一方的に書くのが好きだった。千田本読者なら感謝ハガキの効能は既知の事実。この感謝ハガキを書くときの心構えがあるそうです。それは、「一方的に書くのが好き」ということ。「一方的に書く」つまり最初から見返りを求めていない。そして、「書くこと」自体が好きであること。
一極集中する。会社のペースで生きていると、奴隷肌になってしまう。淡々と生きていると、0ペースが出来上がる。王様肌で淡々としていれば、いつか王様になる。状況が追いついてくる状況。淡々の「淡」は水と炎。お互いを打ち消す、無の状態。自分もないし、相手もない。
気持ちが大きくなる。晴天の空を見上げると、自分の悩みなんて大したことはない。満天の星空を見上げると、自分のしてきたことなんて微々たるもの。なんら、この星には影響を与えていない。空は、ただ進んでいる。僕も、ただ進んでいるだけだ。たいしたことなんて起きていない。
考えを整理してくれることも多い。昼寝が体にいいことは、すでに周知の事実。さらに昼寝が素晴らしいのは、頭の中が整理されること。やらなければならないことでいっぱいいっぱいの頭の中が、整理される。1分でも効果がある昼寝はもはや、仕事の一環として捉えても過言ではない。「なんだこの企画書は!? 昼寝して出直して来い!」
分岐点で1冊の本と、1人の人間に出逢っていた。成功方法だけが成り上がり本の良さではない。成り上がったというテンションを授かることをができるから。どん底から、成り上がったストーリーを想像させてくれる。ただそれだけで、ご利益がある。ただそれだけで、生きていける。
いるだけで、かなり気が紛れるのだ。従業員の強みは、「転職」できるということ。従業員は、会社が傾きかけたら、脱出可能。経営者なら、そうはいかない。だからこそ、この転職できる強みをお守りにすべき。この安心感で、強く生きられる。