誰もが思うこのフレーズ。思うのは自然なこと、けれど、これを口にした瞬間この人の価値はなくなり見下される。「こんな会社」と思ってるこの会社に依存しなくては生きていけない。「いつか」という「いつか」は永遠にやってこない。あるのは、「今」だけ。
周囲からペテン師扱いされているかもしれない。「~頃」は使い勝手がいい。ピッタリでなくていいから。ピッタリは、責任が伴うから意識的に避けるのが人間。ピッタリでもいいし、ピッタリ前でもいいし、ピッタリ過ぎてもいい。自分に自由があって、気楽でいい。相手からしたら、意識が低い人間だと思われる。
他人に対して、怒ってしまう。「環境が人をつくる」典型。仕返し根性の人もいるかもしれないけれど、ほとんどは、自然に行っている。怒らなければいけない場面で、どういう怒り方をすればいいのか考える。すると、自分が怒られた時を想像する。結果、同じように怒る。その怒り方は、正解かと考える気づきができるか否か。
市場が必ず抹殺してくれるというのが、自然の摂理だ。この資本主義社会で、市場から抹殺されることは、この世から抹殺されるに等しい。市場に見放されて生きていけるのは、無人島で暮らす人くらい。理不尽な相手がいたとして、こちらがアクションを起こさなくても、どこかの誰かに打ちのめされる。仮に、誰にも打ちのめされなかったとしても最終的に「市場」に打ちのめされる。市場は1人の人間から成り立っているから。
流れに乗るのが礼儀だ」ということだ。誤りを正すのが、礼儀ではなく、その人を気持ちを汲んであげることが礼儀。間違いを正すことは、裁判官であって、僕らのやることは、その心意気を汲み取ること。正しさの前の、大切さ。人間である前の、人の温かさ。学生時代、自主勉強の時、学級委員長が、「静かにしてください!先生読んできますよ!」というくらいの、サゲサゲ。
本題よりも、面白いのだ。本題よりも面白いことは、人生において多々ある。学校の帰り道のような、あのわくわく感。本題は、誰かが決めたレールであって本題からそれた横道こそ、自分の人生。横道にそれまくって、今がある。横道がやがて、本題になる。
当たり前の基準を上げるということだ。当たり前の基準とは、「依頼者の期待を超える」ということ。出した答えの「プラスα」が、プロの基準。今日のお弁当は、ご飯が大盛りだ。その少しのサプライズがプロの基準。永続して、その基準値を上げていく。
みんなとは誰かと考える。せいぜい、その人間の周囲の小さな世間に過ぎない。その数ざっと3人。統計の強みにどこか似ている。みんなと言えば、強気になれる。みんなと言えば、責任逃れできる。みんなと言えば、自分が透けて見える。
意味を見出していくかが、仕事なのだ。仕事は、組織の歯車。強いては、社会の歯車に過ぎない。絶対やらなければ、ならないものではないし、自分がやらなければ誰かがやって、世の中は回っていくだけ。何かの一部、そこに意味はない。意味は常に、自分が見出すもの。これは、仕事だけでなく人生そのものにも当てはまる。
かっこいい。前は鏡で見られるから、意図することができる。けれど、後ろ姿だけは、自分で見ることができない。つまり、意図することができないありのままの姿だということ。ありのままの後ろ姿こそ、目立ってしまう。その姿に人間は惹かれてしまう。女性の後ろ姿以上の難問は、この世に存在しない。
潜んでいる。何をやってもうまくいかない。うまくいかないのなら、選択が間違っていたということ。正誤問題で、「誤」を選んだということ。だったら、「正」を選べばいい話。過去に「誤」が「正」だったのかもしれない、けれど現時点が「誤」なら、それは「誤以下」である。幸せは、逆に「潜んでいる」
下に循環させていく。恩返しは、恩を受けた人に返すのが正しいとされる。けれど、恩返しは後世にしていくのだといいます。それはなぜか?恩を受けた人は、まだ生きているから。生きている限り、恩を受けざるを得ない。死んでからは、当然恩返しできない。つまり、永遠に恩返しできない。恩返しは、後世にしかできない。それが一番自然の摂理に則っている。
大ベストセラーの必須条件のなのだ。「これはありえない」は、昔の常識。「これはありえない」から、今の常識が生まれた。「これはありえない」と言われないものは、何かを変えることはできない。「これはありえない」と思った瞬間に進化は止まる。「これはありえない」行為が、人間の仕事。
言わせるものだ。悪口を言う立場の人間か、悪口を言われる立場の人間か。悪口を言う立場ほど、下層部の人間。悪口を言われる立場ほど、上層部の人間。あらゆる組織に当てはまる。そして現実は、悪口を言う側は、悪口を言われる側に飯を食わされている。悪口を言う奴ほど、依存している。依存され始めたら、上に登ってきた証拠。
チャンスは誰にでも平等にやってくるように思える。けれど、チャンスは「えこひいき」すると。その基準とは何か?「いい表情をしているかどうか」つまり「顔」で決まると。人は、いい表情の人に与えたいし、与えられたい。
「そんなことわかっています!」お金持ちになる呪文。「なるほど」「そんなことわかっています!」と言われると、「わかっているなら、言われる前にやっておけ!」と反論の余地が出てしまう。「なるほど」と言われると、(・・・)と反論の余地がない。前者はイラッとするのに対して、後者は潔さを感じる。勝手に出た言葉ではなくて、自ら選んで唱えた言葉。まさに「呪文」と言える。
出逢いは、何かの選択と、何かの選択の結果。私が選択しなければ、あなたに出逢うことはなかった。これは、相手にも言えること。つまり、双方の偶然の選択の結果、こうして出逢えたわけである。毎日、当たり前に顔を合わしている相手は偶然の出逢い。毎日が奇跡。
「ありがとう」「ごめんね」「愛してる」この3つの言葉を言うため、言われるために僕たちは必死に生きている。この3つの言葉を得るために、僕らはすごく遠回りしている。遠回りして、回りくどくして、難解にしてこの言葉を表現している。もう、目の前に答えはある。「ありがとう」「ごめんね」「愛してる」
という、未来の悩みで自殺するのだ。過去の悲観ではなく、未来の悲観で人は死を選ぶ。過ぎ去った過去を、変えることはできないが、これから来る未来は、変えることができる。自分の考えを少し軌道修正すればいい。少しの時間でいいから、自分のテンションの上がりそうなことを妄想する。好きな食べ物を食べる。好きな服を着る。好きな芸能人を思い浮かべる。その程度で人は生きられる。
死ぬことはないのだ。どうせ死ぬなら、楽しんでから死にたい。そう思うのが普通。逆に言えば、楽しみをたくさん作れば死にたいなんて思わない。小さな楽しみでもいいから作ってみる。「あれやりたいな」「これやりたいな」が人間の活動力。
石の上くらいなら、我慢すれば誰だって3年くらい行ける。10年となると、「我慢」じゃ続かない。好きも通り越して、生理現象と同じくらいの感覚でやってしまう。10年からやっとスタートできる。生理現象も通り越して、「息」と同じくらいの「気づかなさ」がプロだと思う。
「真ん中」とは、「普通」「平均」「中庸」の事。「振り子」を想像してみる。右が「感動」左が「苦労」だとすると、真ん中が「普通、平均、中庸」となる。「苦労」に振れた分だけ、「感動」の方にも振れる。振り子が真ん中に止まっていれば、苦労もなければ、感動もない。それは、楽しい人生か?と思う。
何も始まらないからだ。僕らは、「生まれてからのこと」ばかりを、気にして生きている。「どういう人生だったか」とか、「もっとこうなればいいのに」とか、しかし、その話の前に考えることがある。「この世に生まれた」ということ。この世に生まれたから、できることがあったということ。笑うことも、悲しむことも、悩むことも。生まれてこれたから、面白きこの世が見れたのである。
どうか、いつも気にしている。「生まれてきてよかった。」たぶん人間というのは、この言葉に始まって、この言葉に終わるのだと思う。必死に生きて、頑張るのは、この言葉の「確認作業」なのだ。大人の心がそうなのだから、小さな心はそれがもっと顕著だ。生んだ本人から、人間として最高の褒め言葉をもらえる。そんな嬉しいことはない。遺伝子の満たされ。
スタートできること自体に感謝するのだ。人は、どんな親の元に生まれたとしても、感謝できる。そう、「この世に生まれたこと自体」に感謝できるのだ。親が少しでも違う選択をしていたら、その親の親が違う選択をしていたら、その親の親の親が・・・。僕らが生まれる確率は、4億分の1どころではなくなる。スタートラインに立てただけでもゴールなのかもしれない。
感謝できるはずだ。世界人口70億人、うち「衣食住が成立している」のは、およそ5億人とよばれている。日本の人口1億2000万人は、その5億人の中に、ほぼ全員収まっているそうだ。終戦から70年経った。70年前には爆弾が降っていた。お国の為に命を授けた。落ち着いて考えてみると、今この時代に、この日本に生きていることはかなり運がいいということになる。人は、目の前に起こっていることが当たり前だと感じてしまう。けれど、本当は何かの上に生かされているだけなのだ。その何かにどれだけ気づくことができるかが、今僕らがすべきことだと思う。