相手に勝たせてもらうに過ぎないのだ。相手が負けて、「自分の勝ち」ではない。結果的に自分が勝った状況があり、その反対側に負けた相手がいただけ。「今回は…」という話だけである。勝負とは、相手に勝つのではなく、自分に勝つこと。連続する人生において、常にライバルは自分自身である。
生き抜いて、あなたが自分の人生にいいことを起こすのだ。似て非なる言葉。前者は、受動的。後者は、能動的。いいことは、起こるけれど、起こらない。ただ待っているだけでは起こらない。起こるために、自分でせっせと仕向ける。
受容できるということだからである。強さとは、ただ強いだけではない。強さの裏には、必ず弱さが存在する。弱さを知恵によって、強さに転換できるのが本当の強さ。その転換できる「やわらかさ」が本当の強さ。弱い自分を知っているから、強くなれる。
呆れるほどに、力に生きる。これが本能。男と女は、同じ人間でも、もともとのベースはおろか生きるステージが違う。けれど、お互いを無視して生きてはいけないところが、うまくできている。お互い歩み寄らないと、幸せにならないようにできている。愛と力のバランスが人間。
諸刃の剣なのだ。コンプレックスを克服しようとして、前進できる。コンプレックスをバネにして、やれることがある。コンプレックスに押し潰され、人生がボロボロになる。コンプレックスが強すぎて、やれないことがある。コンプレックスは、うまく付き合い、うまくコントロールする必要がある。まずは、自分のコンプレックスを受容することから始まる。
役職でするものだからだ。ズバリ!な名言です。「実力主義」、「成果主義」と叫ばれる時代。仕事はどう考えても、一に実力、二に実力、三に実力・・・だと思われている。ズバリ!「仕事は役職でするもの」実力云々、組織は、命令系統で成り立っている。役職を無視したら、回路が働かない。役職ありきの、実力なんだ。
後悔する。親が亡くなって、初めてその有難味に気づく。もっと大切にしておけばよかったと後悔する。人間は目の前にあるものにしか、感謝できない生き物。無いものには、心から感謝できない。無くなったのを、目のあたりにして初めて心から感謝できる。その時に必ず後悔する。
表情がそのまま履歴書になる。解りやすいのが、TVで殺人を犯した容疑者の顔が公開される。やっぱり殺人を犯すような人は、殺人を犯すような顔をしている。詐欺をはたらく人は、詐欺をはたらくような顔をしている。「名は体をあらわす」というが思ったことの積み重ねがその人物を形成していく。幸せな人は、不幸な顔をしていない。
ものではなく、欠けているものに惹かれるのだ。人間の欲求は、「自分に無いもの満たす」こと。自分に無いものを、自分の中に取り込みたいのが、欲求。欲しくて欲しくてたまらないものを手に入れた瞬間に、その欲求が消える。人生で成功したいのも、お金や名誉が欲しいからではなく、その裏に隠された満たされない欲求の克服である。すべての欲の根源は、1つ。
事実の解釈を変えることはできるからだ。「過去は変えられない」確かに過去を変えることはできない。起こってしまったことを変えることはできない。けれど、「変えたいような過去」にしているのは誰でもない自分だとわかる。落ち着いて考えると、「変えたいような過去」は実は、「必要不可欠な過去」だったと思える。つまり、自分の「思い方」でその過去は、良くも悪くもなる。今が幸せなら、全部チャラ。
創り上げたものは、1つもない。今目の前にしているコンピューターも模倣から生まれたもの。今、手を動かしているこの体も、人間が0から創り出すことはできない。すべてのものは、自然から生まれた産物に過ぎない。人類がこの世の覇者だと思っているのは、人類だけ。自惚れに過ぎない。
だがお金は、低い場所から、高い場所に流れる。水は高い場所から、低い場所に集まる鶏口がある。海に流れた水は、水蒸気になってまた高い場所に集まる。水のほとんどは、低い場所、つまり海に集まっている。お金は高い場所に集まる傾向があるが、低い場所にも少しながら流れている。水もお金もエネルギー。エネルギーは、「集まりやすい場所」があるということがわかる。
耐えることではなく、工夫を凝らすことだ。これがなかなかできない。どうしても、「耐える」ほうにむかってしまう。「耐える」ほうは、頭を使わないから楽。ただ耐えるのが目的だから、耐えられてしまう。それが現状を打破できない理由。耐えられるのは、奴隷の遺伝子が刷り込まれているのか。
お金の方が大切だと考える人が、確実にいるということを学んだ。命が一番大事という。けれど、お金の為に命を捨てる人がいるのなら、お金が一番大事になってしまう。どちらというものではないとしたら、人それぞれの価値観でしかないのかもしれない。そこにある答えは、「自由」すべては、「自らのよりどこり」に向かっている。
バタフライ効果というものがある。わずかな変化が、大きな変化に繋がっているということ。つまり、この世に存在するものは、意味があって存在する。意味のないものは、もともと存在していない。すべては繋がっている。否、もともと1つのものかもしれない。
きっとスパイラルを描いて、成長しているのだろう。歴史とは、起こった事実でしかない。「A地点からB地点に移動した」だけの話。その過程で、付加されるものがある。それが「成長」移動するだけなら、わざわざ拡張する必要はない。成長するために、拡張する。
拡張と収束をひたすら繰り返しているのだ。延々と広がり続けるものはない。広がった後に、必ず一つになっていく。広がるということは、伝染するということ。1つの考えが伝染すると、そのサークルが1つの考えとなる。拡張し、収束する。僕らの人生も、多岐の方向に拡張するが、誰もが迎える「死」という一つに収束する。
最高のマンガの楽しみ方だ。ラストシーンが最高だとは限らない。最高のシーンとは、自分で決めていい。模範解答の場所で、模範解答通りに感動するのは感動させられてるだけかもしれない。自分のツボは、自分味でいい。誰も感動しないような部分にこそ、自分の本質がある。
言葉を大事にしている人は言葉の威力を理解している人。言葉がどんな影響を与えるか本能的に理解している人。冗談でも、事実となる。人に発した言葉は、一度、自分の中を通って出ていく。言葉を大事にしている人は、自分も他人も大事にしている人。
というのが、正しい苦労の仕方なのだ。「苦労」には正解、不正解がある。正しい苦労とは、やむを得ない苦労、つまり、通過点の苦労。間違いの苦労とは、苦労することが目的の苦労。つまり、苦労が最終地点。「苦労すれば報われる」というのは、プロパガンダ。苦労の先には苦労が待っている。
「他人と過去は変えられない」という正論。確かに、物理的に過去は変えられないし、他人を変えることは他人しかできない。けれど、自分の解釈は変えることはできる。「あのつらい過去があったから、今がある。」過去の不幸は、今幸せになる材料だったということ。その幸せな姿に、人は影響を受け、変わる。
絶対的なものではなく、相対的なものだ。絶体絶命とは、なんだろう?その絶体絶命とは、本当に絶体絶命だっただろうか?この安全大国日本で洋画に出てくるような絶体絶命の危機に遭遇することは極めて少ない・・・皆無に等しい。自分の中で「絶体絶命の危機だ」と思ったら、冷静になり、何かと比べてみる。織田信長の絶体絶命に比べたら・・・マハトマガンジーの絶体絶命に比べたら・・・
ふと、解決の糸口が見えてくるものだ。「難しい問題だ」というと、思考が停止する。「面白い問題だ」というと、思考が始動する。「難しい」というと、脳は敬遠する。「面白い」というと、脳は興味を抱く。興味を抱いた脳は、解決に向けて全身全霊をかける。
になり、昔話にはならないのだ。現在進行形でやっていることが、好きなこと。否、好きなことは、現在進行形でやっていなければウソだということ。世の大半は、嫌いなことを現在進行形でやっている、または好きなふりしてやっている。生活を大幅に変えることが難しいのなら、1日のうちで、何%かは、本当に好きなことをやっていたい。現在進行形は、未来進行形。
「当然」という言葉を使ってはいけない。「当然」は自分と対等か、それ以下に対して使う言葉。それを言った瞬間に優劣をつけてしまう言葉。人は「立場」を何種類も演じる。自分が上の時もあれば、自分が下の時もある。この資本主義経済において、常に上でもなく、常に下でもない。立場によって、使っていい言葉が変わる。
楽しいと、生きている実感がある。ツラいと、そうは思えない。悲しい、そうは思えない。けれど、生きていることには変わりない。ツラさ、悲しさという苦痛も、死んでいたら、味わえないもの。すべて相まって、絶妙な味になる。甘い味ばかりが、人生じゃない。
一目散に逃げていいのだ。「僕がいないと・・・」「わたしがやらないと・・・」ということがある。この強迫観念は、誰から与えれたもの?誰でもない、自分から与えられたもの。自分で自分を追い込んでいるが、それは自惚れでしかない。仮に自分がやらなくても、誰かがやって、今日も世の中は回っていく。自分の命には、替え難いと思う。