シンプルなのだ。「本質」の対義語は、「現象」本質がシンプルなら、現象は複雑。起こったことが複雑なら、本質とは逆。現象からシンプルにすれば、本質にたどり着く。その現象を起こしているのは、どう考えても、自分。
読んでもいいのだ。実は「~しなければならない」という「マスト」は現実的に存在しえない。「仕事しなければならない」と思いがちだが、仕事をしないで生きている人は、たくさんいる。「結婚しなければならない」と思いがちだが、結婚しないで幸せな人は、たくさんいる。究極は、「生きなければならない」と思っているのは、人間だけかもしれない。絶対的という架空に、勝手に囚われている。
出逢う。期待していたことで、期待外れのことはよくある。期待していなかったけれど、期待以上の何かを得ることがある。それは、意識的には、何も期待してなかった。けれど、ム意識的には何かを欲していた。無というより、ム。
あるように、どんな人生でもたった一言のコピーに集約されるのだ。人の人生は、何か一つのことをあの手この手で表現しているだけの話。そうしないと、人には伝わりにくいから。一言で言っても、当たり前すぎて人には聞いてもらえない。だから、たくさんの自己表現をする。正確に言えば、自分で自分を難しくしているだけの話。死ぬ間際に言った言葉が、その人の人生のコピー。
理由ではなく、誰にも気づかれない違いこそが真の理由であることが多い。人は、黒か白かはっきりさせたい。誰にでもわかる正解が欲しい。でも本当は、白、黒はっきりしないグレーが一番大事だったりする。グレーという中間があって、白や黒が際立つ。否、白や黒が、グレーを際立たせている。
「独りブレスト」相反するものの、統一です。けれど、実は「独り」ではなく、自分の中にいる、大勢とブレストしている。他人とブレストすると、本当にストーミングになりかねないが、自分とブレストすると、春の息吹に収束する。自分との対話が一番おもしろい。
お金に好かれるということだ。お金は、人が運んでくる。人を説得させた人ではなく、人を納得させた人にお金は流れ込む。どんなにいい「商品」でも、作り手の自己満足では、人は集まらない。普通の「商品」でも、人が満足してくれれば、お金が集まる。だから、宗教が成り立つ。
消費者は、感謝してくれないものだ。メニュー構成に数時間、仕込みに数日、お客様の食べるタイミング、すべてを考えて提供した料理。食べるのは一瞬。そして、「おいしい」の一言さえないこともある。「わかってくれない」が答えではない。「何かが、足りない」が答え。飽くなき。
理論も、大衆の本能や気分には適わないのだ。理論とは、相手を打ち負かす武器。人をコントロールする法律、ルール、掟のこと。けれど、それはあくまで人が拵えたもの。それ以前の、本能は神様が拵えたもの。不完全な人間が拵えたものは、やはり不完全である。
まず共感を抱いてもらうことがスタートだ。人は欲しいものにお金を払う。欲しいものというのは、共感を通り越している状態。逆に言えば、欲しくないものは想われていないもの。存在を確認されて、はじめて土俵に上がれる。そこで共感され、共感を通り越せば買ってもらえる。
ホラなら、グレーゾーンでセーフというわけだ。ホラの中に、1%でも真実が含まれていればそれはウソにはならない。ズルい、ズルくないの話ではなく、これが、人の目を引くやり方の一つであると関心できる。どんなにすばらしいことでも、人に知られなければ、存在しないのと一緒。「自称○○」も、グレーゾーン。まずは人の目を引くことで、話を聞いてもらえる。
一瞬でわかる包装紙にお金を払う習性があるという事実に気づかされるはずだ。同じ原価で作った2つのバック。片方には、ブランド名をつけるだけで何倍にも価格設定ができる。そして、人はどちらを買うかというと、安いけれど、名もないブランドは買わず、高いブランドのついたバックを買う。原価は同じはず、けれど人はブランドを買う。つまり、「包装紙」を買うということ。
機微を予習するのにもってこいだ。小説は架空の話。けれど、その架空は、人間の頭から生み出された。現実以上の想像、それは、現実。これから起こりうる現実。自然以外の、今目の前にあるものは、すべて想像から生み出されたもの。
繋がっているからだ。好きな分野を掘り下げる。より、深さを求めようとすると、横に広げなくてはならない。コロッケ1つ極めようと思ったら、作り方、味はもちろんのこと、揚げ油、油の温度、、フライヤーor銅鍋・・・お客様の食べるタイミング(心理)、と、知識を食材以外に広げないとおいしいコロッケは極められない。つまり、掘り下げると、横に繋がる鉱脈がある。
もたもたすることだ。もたもたしていると、もたもた嫌いな人から嫌われる。もたもた嫌いな人とは、概して成功者と呼ばれる。結果、お金も稼げなくなる。もたもたとは、自分と相手の温度差。その温度差に耐えられない。
の本音の部分を、批判するのではなく、正面から感じるのだ。「結局それか・・・」「やっぱりそうなのか・・・」現実(仕組み)を知って萎えてしまうことがある。しかし、それは紛れもない事実。起こったことしか事実にならない。その、黒い事実を正面から感じることが一番近道だったりする。
厚生省の「国民健康・栄養調査」で、所得の低い世帯ほど米やパンなどの穀類の摂取量が多く、野菜類と肉類の摂取量が少ないと発表した。野菜を食べようと思ったら、手間とお金がかかる。つまり、お金も時間もないと、お手軽な炭水化物でお腹をいっぱいにするしかない。野菜の摂取量と年収は見事に比例した。注)野菜を食べていれば、年収が上がるわけではない。
他人に復讐するためではなく、他人を赦すためなのだ。強いの反対は弱い。つまり、弱さを知っているから、強くなれる。強くなればなるほど、弱さをわかっていく。つまり、弱いは弱いだけだが、強いとは弱い。強いと人を赦せる。
マッチョで腰が低いのは、謙虚。どちらも表面的には、同じに見えるが・・・否、表面的にすら対極。ガリガリの謙虚は、卑屈に見えるが、マッチョの謙虚は、超謙虚に見える。本人は必死でも、周りから卑屈だと思われればそれは、卑屈以外何者でもない。これは、「卑屈」に限らずすべてに言えること。どう見られたか、がすべて。そして、どう見てるか、がすべて。自分の世界は他人には理解できない。理解する必要もない。
「心」が「亡」いで「忙しい」「貧しい」の「貧」という字は、「分」+「貝」という字で成り立っている。「貝」はお金や財産のこと。「分」は分散していくということ。心を亡くすと、散財する。心とお金は、連動している。
お洒落が発達したのだ。スッポンポンに自信がなくても、お洒落にお金をかければ、強くorきれいに見える。お洒落が発達するというは、それだけスッポンポンは退化したということ。逆に言えば、最強のお洒落とは、肉体そのものが、お洒落なこと。その深層には、「人間、表面より中身」だということが、本能的にわかっているから。お洒落好きほど、何かを隠している。
あなたが自立しているということなのだ。自分で生活できるということが、自立。けれど、立っているだけでは前に進まない。前に進むには、摩擦力が必要。自己鍛錬によって、人間マサツリョクがつく。自分で自分の身を守れるのは、けっこう大変なことだった。
をかく。体を動かして汗をかいたら、知的作業で疲れを癒す。「知的、肉体的、共に成長させる」は確か。しかし、「知的、肉体的、共にバランスを取る」というのが、本当の意味。知的だけに偏っても、成長しにくい。肉体的だけに偏っても、浅い。「両者共に」というのが、人間の成長そのもの。
そこに人とお金が集まってくるのだ。同じ「尖り」でも、ヤンキーは自分の「無さ」を隠すために尖っている。「有る」人間は、隠す必要がないから、丸く見える。しかし、よく見ると尖っていて、その尖りが魅力的に見える。本物のヤンキー以外に、一般人でも、無さを隠すために尖っている人がいる。「ただ尖っているの」と、「尖って見える」のは違う。
がわかっているということだ。全て網羅しているから、ここでは手を抜ける、ここは手を抜けないがわかる。何もわからないのに、手を抜くのはナマケモノ以外ナニモノでもない。一日にできることはそれこそ限られている。「何を優先して、何を省略しなければならない」を常にわかっていないと膨大な仕事に押し潰される。その判断力が、仕事力。
を得なくなる。自由時間と、自由マネーがあれば、質の高い筋トレができる。筋トレだけでなく、質の高い食事もできる。筋トレや食事だけでなく、人生全般に質の高いものと出逢える。質の高い人間関係、質の高い情報・・・自由時間と、自由マネーはその人間を高みに運んでくれる。
時間は資源。資源は限りがある。僕らの人生にも、限りがある。その人生の時間配分によって、どんな人生になっていくかである。寝て過ごすのも人生だし、ただ一つの目的の為に生きるのも人生。自分でコーディネートする人生。
なのだから根源的にはまったく同じ構造なのだ。筋トレは、成長する時は、グンと伸びる。グンと伸びるが、ずっと同じことをやっていると停滞してしまう。さらに成長させるために、成長をストップさせる。僕らの人生も壁の連続。それは、更なる成長の為のスイッチ。
ではなく、一番工夫を凝らした人だ。努力とは、「自称」結果は、努力量では決まらない。努力が必要なのは前提の話で、どれだけ工夫できたかの話。工夫とは、手の抜きどころ。努力は、してしまうもので工夫は、するもの。