格差は越えられる時代になったのだ。フランス革命のように、血を流さなくても格差を越えられる時代になった。格差を唱えようものならそれは、自分自身で決めていることになる。貴族になることもできるし、奴隷のままでもいい。今の自分は、まぎれもなく自分のしてきた選択。奴隷が嫌なら、「国家の一撃」ではなく、「自分自身に一撃」を喰らわす。
スタートレベルは高いことに感謝する。あの活躍した偉人は、「0」からのスタートだった。けれど、僕らはあの活躍した偉人から「学べる」ことができる。すでに彼らより、スタートレベルが高いということ。偉人達の、残した言霊を知ることができる。彼らの人生を疑似体験できる環境にいる。この好環境は、「格差社会」とは言えない。
限界。限界は自分が決める。つまり、格差も自分が決めていることになる。誰もがチャンスを与えられているこの日本で、「格差」と唱えるのは傲慢でしかないのかもしれない。だとしたら、自分の限界を超えればいいだけの話。格差とは、社会との戦いではなく、自分自身との戦い。
快適さや便利さばかりでなく、常に厳しさを伴う。携帯電話の普及でどこにいても相手と連絡が取れるように快適になった。スマートフォンの普及でどこにいても世界中の誰とでも繋がれるようになった。どこにいても、誰とでも・・・。は本当に幸せだろうか?常に誰かに監理されるのが幸せだろうか?そんなこともないと思う。
ノルマもないし、ストレスもない。お互い、ストレスがない。みんな自分の好きなことができたら、お互いストレスがない状況になる。嫉妬もないし、競争もない。けれど、資本主義では実現しない。資本主義でも、お互い好きなことができたら、究極。
嫌いだ。この「気持ち悪い」を無視できない。すべての問題は、「この気持ち悪さ」で選択してもいいくらい。「気持ち悪い」ということは、自分の分に合っていない。高低のレベルではなく、「ただ自分には合っていない」と直感的に思うこと。一瞬で自分のDNAが拒否しているのだから間違いはない。
「ごめんなさい」に含まれているからだ。「好き放題やって、ごめんなさい。 ありがとう。」となる。つまり、ごめんなさいの中に「ありがとう」がいる。これが、究極の謝罪言葉であり、究極の感謝の仕方。謝罪なのに、ポジティブにしか思えない。そもそも、謝罪はポジティブなもの。
接着剤なのだ。「ごめんさない」と言われると、大抵のことは、許される。「ごめんなさい」を言わないと、言うまで、迫り続ける。「ごめんなさい」と言える人は、決断できているひと。縁が切れてもいい覚悟している人。けれど、切れない。
「ごめんなさい」のベストタイミングだ。ありがとう、は言えても、ごめんなさい、は言えない。ありがとう、はいつ言ってもいいが、ごめんなさい、はタイミングがある。そのタイミングとは、今日の名言。一番言いずらいタイミング。(今、言わなきゃ!?)って思ったあのタイミング。あのタイミングに言えると、逆に尊敬される。それ以外に言っても「何よ今さら・・・」で終わってしまう。
相手の本音を聞き出さないことだ。追えば追うほど、離れたくなるのが人間。生きていれば何かしらのシガラミが出てくる。守り通さなければならないもの。人の為を思ったら、人間は本音と建て前でしか生きられない。だから本音は、なかなか出てこない。
は、人望の厚い人だ。八方美人は人望が厚いと思うが、逆。誰にでもいい顔するから、孤立している。人望の厚い人は、身近な人、数名を大事にする。エネルギーを分散させるか、集中させるか。本当の身近な人は、案外、自分だったりする。
終わってしまうから、疲れておしまいである。やせ我慢、その場しのぎは疲れておしまい。自分に合っていないから疲れておしまい。たとえ、10年続いても、疲れておしまい。死ぬ間際に後悔して疲れておしまい。疲れておしまいって人間らしい。
自分自身が気づいているからだ。できないこととか、ダメだろうと思うことは大概結果は悲惨になる。それは、自分自身でもわかっていた。その直感は当たっていた。テストで、手ごたえがあったときはやはり点数がいい。「ダメだなこりゃ・・・」と思ったときはやはり点数が悪い。
接点を見つけたときの感動は大きい。どんなにかけ離れていても、接点がある。どんな分野でも、すべては人間の営み。根底では繋がっている。しかしそれは、根元でなく、空高くで繋がっているから、わかりにくい。SNSで打算的に繋がるのではなく、自然の摂理で繋がっていくのが、本物。
とか気をつけている部分こそが、あなたが他人に対してカチン!ときたりイライラしたりする部分なのだ。それを平気で出しているその人にカチン!とする。「なんでこんなことができるの!?」と脅威を感じる。裏を返せば、自分はそれを知っているからいつでも自分が当事者になる可能性を秘めている。自分にもそのカチン!が潜在的に備わっている。
明言です。「完成はない。」確かに、人間に完成がないから人脈にも完成はない、ということ。その人の成長の度合いによって、人脈は入れ替わる。「完成はない。」と考えるだけで、去る者を追うことなく、来る者を拒むことなく、生きられる。名言です。
結果としてできてしまうものだ。その人の人脈は、その人の分にあった人脈。自ら計算して、分にあわない人脈を作ろうとしてもそれは分にあわない人脈図になるだけ。これ以上でもこれ以下でもない自分の集大成の結果、今の人脈がある。人脈はご縁と考えると、自然。自分の実力が招き寄せたご縁。
気づかされて人生がとても面白くなる。ゲーム感覚だとこうなる。その世界があり、主人公の自分がいて、それをプレイする自分がいる。つまり、第3者として、人生をプレイできる。例えゲームオーバーになってもリセットして、新たにスタートできる。無責任な考えではなく、現実そのままである。
格差は越えられる時代になったのだ。将軍になりたければ、なれる時代。大名になりたければ、なれる時代。奉行になりたければ、なれる時代。商人になりたければ、なれる時代。家柄に関係なく、誰もが下剋上を狙える時代になった。
それを引き寄せる原因が、自分自身のどこかにあったと考えると、ものごとは前に進みやすい。「自分に原因がある」と言うと、拒絶反応を起こしてしまう人がいる。「自分に原因がある」と理解している人でも、いい気分はしない。それは、素直で人間的。しかし、それでは前に進みにくい。自分に原因があると考えると、グンと物事は前に進む。いちいち反応して立ち止まっているより、消化吸収したほうが、成長のスピードが速い。
創り出すために、存在する。本物の人脈は、「人工的に損を創り出すために存在する」とあります。もはや、そこには見返りを求めていないことがわかります。見返りを求めない=差し上げている自分が満たされているから、他人に差し上げている状態。振り子を、相手の側にグッと押している状態。その手を放すと・・・。
お節介するものではなく、まず自分が享受するものだ。まずは自分が満たされて、それから他人におすそ分けできるようになる。コップに水が満たされ、そこから溢れた水を、あげることができるのだ。自分のコップが満たされていないうちに他人にあげてしまうと、見返りを求めるようになる。「あそこまでしてあげたのに・・・」と「あげたつもりの貸した」は質が悪い。
においても大好きに生きることを貫いた。ドリームキラーが「そんなことしてないで、もっと現実を見ろ」と言う。ドリームキラーは、嫌いなことを我慢して生きることを貫いている。だから、好きなことして生きている人を見ると拒絶反応を起こす。まるで宇宙人を見るかの如く。ドリームキラーに説得されるくらいなら、そこまで好きなことではない。
接点すらない。「愛される」のは、計算なしで、悪路を走破している。「嫌われないように」のは、計算して、根回しして、平均台の上を歩いている。「愛される」は、勝手に愛され、「嫌われないように」は、愛されることはない。やりたいようにしか、やれない。
時と場所を変えて別の誰かにその恩を返しているのだ。細胞はなぜ分裂するのか?それは、情報を伝えるために分裂する。その生涯をかけて、伝える。「伝える」=「進化」「恩」とは、ある意味「情報」である。恩の伝達が、ぼくらのしたいこと。