成し遂げることだ。不言実行から生まれた「有言実行」言って実行した人と、言わずに実行した人は、「言って実行した人」の方が評価される。けれど、不言実行のカッコよさは、気がついた時に、カッコよさが2倍になる。わざわざ、見てアピールする「有言実行」とは一味違う。不言実行はクールだ。
引っ張り上げてもらうことだ。成功は、自分でのし上がるイメージがある。誰の手も借りずに、のし上がるイメージがある。けれど逆で、「人の手を借りて成功する」成功した人に、引っ張り上げてもらうということは、成功した人が、引っ張り上げたい人物になるということ。崖っぷちで、必死に助けてもらうイメージではなく、雲の上から、スッと手を差し伸べてもらうイメージ。
映画それ自体の出来映えよりも、見る人がどれだけ人生経験を積んできたかで決まる。子供の頃に観た映画を大人になって観る。すると、点と点が線になったように、面白く感じる。人生経験を積んで見る角度や解釈が変わったから。これが、もっと大人になると、年を重ねれば、重ねるほど、解釈は変わり、面白くなる。人生は、どんどん面白くなるように、できている。P.S.子供の頃は、「観」るというより、「見」る。
妙に落ち着く。向き合うということは、受け入れるということ。妙に落ち着くのは、有りのままの自分を受け入れたから。「有りのままでいい」という自分を受け入れたから。そこからしかスタートできないし、スタートすらできないものは、しないほうがいい。手の届くところから、攻めていく。
から、自分の実力を過大評価してしまう。群れの中にいると、扱いが個人ではなく、全体となる。責任は、個人から全体に分割される。責任がないということは、質が落ちる。全体が隠れ蓑になっているから個人の成長がないのである。一人から二人になった時点で、責任は50%offだが、成長は50~100%off。
今握りしめている偽物を潔く手放すことだしがみついている時は、力が入っている。力が入っている状態で、本物は獲得できない。本物は、力すら要らなく、自然と掴めるもの。しかし、この「潔く手放す」ことがむつかしい。潔く手放せないで、不幸な人はたくさんいる。
が重んじられたのに対して、今世紀からは、本当に役に立つかどうか、楽しいかどうかが重んじられるようになったからだ。正しいを貫くと、争いが起こり、お互い首の絞め合いとなる。楽しいを貫くと、争いはなくなり、お互い自由に生きることができる。偉いとか、正しいとか役に立つとか、楽しいとかは、結局「自分」になってしまう。自由なら、どれを選んでもいい。
も遥かに厄介だ。目に見えない鎖は多種ある。本当に見えていない。本当は見えているが、見えていないふりをしている。見えていない方が、心地いい。見えていたが、見えていないことに慣れてしまった。見ようともしない。その鎖は、自分で縛ったもの。
お金をもらうが、お金持ちはお金を払って時間を買う。誰だってお金は欲しい、お金が時間を生み出すことを知っているから。徒歩で行けばお金はかからないが、時間はかかる。価値観の違いと言うより、先入観の違い。「時間=お金」だと思っている。しかし、「お金≠時間ではない」という事実。
基本的に敵か手下しかいない。強いから、敵が次々と出てくる。強いから、自然と手下ができる。強いから、ライバルは自分になる。ライバルが自分ということは、孤独だということ。孤独であるために、強くなければならない。
は存在しない。適正価格なら存在する。安い=原価、人件費をかけられない=粗悪品になる。298円の弁当と、10000円のコース料理は違う。298円の弁当の食材と10000円のコース料理の食材は違う。298円の弁当を作る人間の技術と、10000円のコース料理を作る人間の技術は違う。298円の弁当を提供するサービスと10000円のコース料理を提供するサービスは違う。その相応の商品の適正。
いては殺されてしまうのだ。所属するということは、その組織に染まるということ。その組織に染まるということは、自分の色は出せない。自分の色とは、才能と夢の事。才能は、自分のやりたい方向へは向かない。夢は、人に殺されてしまう。孤独になれば、ブレない。
召使いと一緒。サラリーマンは召使い。三十万人の大企業でも、社長と二人の零細企業でも人に使われているのだから、召使いということになる。人に使われている限り、永遠に召使いとなる。個人の力ではなく、組織の力。食わしてもらっているに過ぎない。
と思っていても、現実に戻ると人は脆い。何かのきかっけで、感化され、人は一念発起する。「その時は」である。その日はギリギリやる気になっているが、翌朝はもう忘れかけていることが多い。普段の朝と何ら変わらない。やる気がアップしても、体温と一緒で平熱に戻ってしまう。それは人間の弱さというか強さというか。
になるのだ。「安い」=原価&人件費も安い=品は粗悪その対極の「高い」は、原価&人件費もかかっていて安心。安全。美味しい。だが、その上が存在する、「第一志向」である。とにかく食べたいモノを喰う。体が欲するものを喰う。自分欲求以外度外視。
ということだ。褒められて喜べるのは、子供くらいで、大の大人が褒められて喜んでいるようでは、「私は奴隷で構わないです」と言っているようなもの。世の中は、褒めて人を使う側の人間と褒められて使われる人間がいる。褒められる側は、褒めてもらう為に、命を懸ける。褒める側は、褒める為に、そんなに命を懸けない。どちらの側でも、楽しい。
「やる気が出る」とか、「やる気を出した」という言葉の裏側には、「好きじゃないから」という意味が含まれている。やる気を出さないとできないことは、好きなことではない。嫌いなことである。この名言のように、「好き」とはやる気とは対極にある。やる気がないけど、ついやってしまったことが、好きなこと。
偉大なことを成し遂げられるのだ。繊細だからこそ、踏み切れないことが多い。繊細な人が繊細さとは逆の「大胆」に乗り切ったときに奇跡が起こる。大胆な人が思い切るのは、よくある話。逆に大胆な人が、繊細になったとき奇跡は起こる。タブーに踏み出すのは、対極の融合である。
もいい。「無理に強くなる」又は「自分を強くさせる」必要はない。それは、強いわけではないから。本当に強いとは、「自らをありのまま受け入れる」弱い自分を受け入れるのが、強さ。情けない自分を受け入れるのが、強さ。受け入れても、生きていける。
とは絶対言わない。それを言ったところで、「苦労自慢」にしかならない。そう、今更だから。逆に、「自分は苦労した」という人ほど、人並み以下だったりする。それを聞いたところで、楽しくなるわけでもない。誰かが幸せになるわけでもない。そう、今更だから。
が眠っていることにも気づかされた。認めたくない事実とは、「図星なこと」だから認めたくない。どうでもいいことなら、反応すらしない。「認めたくありません!」と拒絶反応するのは、本人にとってすごく、敏感なスポット。裏を返せば、すごく気持ちいいスポット。そこに金脈がある。
考え方にあり。考え方とは、「決断の際の物差し」つまり、その決断がカッコいいか、否かが、モテる決定打。人の本性は、「際」に現れる。際がカッコよいか、際がダサいか。際だから、計算できない。突然だから、本性が出る。
つまり、空気のことだ。その場の雰囲気を壊す人、つまり「サゲ間人」サゲ間人がいるだけで、その場にいる人すべてが、不幸になる。サゲ間人がいるだけで、その場にいる人すべてが、変な気を使う。サゲ行為は、グレーでなく、完全なるブラック。サゲ行為が、犯罪になる未来は、すぐそこにある。
というのは、本当の話だ。「お金が人を狂わせる」とは、言い換えると、「人がお金を狂わせた」となる。たまたま、千載一遇でやってきたのに、その人間が使い方を知らなかった為に、お金を狂わせてしまった。つまり、悪銭に換えてしまったのだ。お金の使い方を知っていれば、分相応で使われた。悪貨に駆逐された。
すべてモテないことにある。僕らは日々、分裂している。「細胞分裂」という分裂。ミクロでみて、分裂。ならば、マクロでも分裂。分裂とは、生殖本能のこと。生殖本能に有利なのは、モテること。「モテたい」という、ネガティブワーク。
人間にとって最大の苦痛だ。価値観とは、いわゆる「自分正義」である。人は皆、一人一人自分の正義を持っている。人の正義ほど、受け入れられないものはない。正義とは、立場によって変わる。正義とは、気分で変わる。
ふて腐れた瞬間に、人生は終わる。ふて腐れることができるのは、幼児くらいなもの。大の大人がふて腐れるのは、人生を放棄したことになる。大の大人がふて腐れたことで、誰も構ってはくれない。構ってくれないどころか、関わりたくないと思われる。つまり、市場から抹殺されるということ。ドロップアウト=「脱落」しかし「脱出」の意味もある。
どちらでもあなたの好きな方を選べばいい。応援するような状況にあるなら、すでに実力の差は明らかである。嫉妬するような状況にあるなら、もう目も当てられない。そこで潔く眺めることができるか。嫉妬に狂ってしまうかは、自分の好み。楽な方を選べばいい。
格差をゼロにすればいい。格差がない社会とは、誰もが平等な世界。何の成果も出さない窓際社員も、会社の8割の利益を出しているエリート社員も、給料は同じ。何の責任もないアルバイト君と、キケンと隣り合わせの職業の人と、給料が同じ。だったら、頑張って会社の為に奉仕したりするのか?そんなリスクの高い職に誰が就くのか?格差は必要。