というように、相矛盾するものが一体化したものだ。相矛盾するものが、存在するということは、それは矛盾していないということ。矛盾しているなら、出逢うことすらなかった。もともと2つで1つだから、一体化できた。つまり、この世に一体化できないものはない。すべては、1つになるために動いている。
人は必ずそこを見ているものだ。こだわるとは、頑固や執着ではない。素直で好きでいるということ。人は、見てそうなところを見ずに、見てなさそうなところを見ている。見てなさそうなところに、本性が隠れているから。その見てなさそうな部分に、こだわりがあると、一目置かれる。
だから才能のある人に、丸投げする。才能とは、生まれ持った資質。生まれ持った資質には勝てない。だから、才能のある人にお願いし、自分の才能で恩返しする。凡才を天才にする発想は時間もかかるしストレスも溜まる。天才をさらに天才にするほうが、時間もかからずストレスもない。
許せる人生を歩め。「自分もわがままを言っていいから 他人のわがままを聞く。」のではなく、自分も他人もわがままを言っていい空気にする。自然と相手のわがままが通り、自然と自分のわがままが通る。「そのわがままいいね!」と認められる空気。わがまま=我がそのまま=そのままの自分でいいよ。
群がっては団結して「エイエイオー!」を叫びたくてたまらない本能があるのだ。いかに「エイエイオー!」を叫ばないようにするかが、成功の分かれ道。ちょっと気を許すと「エイエイオー!」を叫びそうになるので、そこはグッとこらえる。「エイエイオー!」を叫ばないようにするためには、まず、群れないこと。群れなければ、それだけで「エイエイオー!」を叫びたくなる機会が減る。「エイエイオー!」の基本理念は、「奴隷」
執拗に追いかけるのは、さげまん行為だと一日も早く気づくことだ。去る者追わず。去る夢追わず。「去る」ということは、相手が「去りたい!」から去って行く。それが人間であっても、夢であっても。「人生の逆消去法」が働いてくれているので、素直に見送ってあげる。命の無駄遣いをしなくて済んだ。
為に生まれてきたのであって、凡人を秀才にするために、生まれてきたのではない。あげまん的思考は、長所を伸ばす。さげまん的思考は、短所を克服しようとする。あげまん的思考は、ひとつのことにすべてを懸ける。さげまん的思考は、その他大勢のことにすべてを懸ける。さげまん的思考があることで、あげまん的思考がある。
畏怖の念を持ち、女性は男性の強さと逞しさに畏怖の念を持つことだ。畏怖の念とは、「恐いけど、尊敬してしまう」という意味。相反する意味を持つ言葉。男女関係も相反している。お互いの考えに、嫉妬するでもなく、反抗するでもなく、恐れながら尊敬する。お互いがお互いの価値を認め、自分に無い部分を勉強するストーリー。
対して、不快感を抱く人も多いのではないだろうか。男性もどきの、女性に不快感。女性もどきの、男性に不快感。これは、同性、異性に関係なく、不快感を抱く。やはり、自然の摂理に則って生きる方が、精神衛生上もいい。自分を成長させるうえで、背伸びも必要だが、歩幅に合わせて生きるのも、悪くない。
このさげまんは、さげまんで苦労したんだなあ・・・」と憐れむ顔は、まるで反省した顔のように見える。神様目線で、赦してあげる。同乗はしないが、同情してあげることで、相手を赦すことができる。同乗はしないが、同情してあげることで、相手を憐れむことができる。その表情が、反省している表情に見えるから、一石二鳥である。ノーリスク、ハイリターン。
自分から溢れ出る運気を与え続ける生き物だ。女性の本能が、愛。男性の本能が、力。本能に従えば、男女ともに運が良くなる。自然の摂理に則っていれば、運が良くなる。自然の摂理とは、ありのままの自分。本能に従うとは→自然の摂理とは→ありのままの自分とは→本能に従う・・・
もう二度と悪いことが起こらないようにするためのアラームなのだ。悪いことが起こるのは、悪いことが起こる原因がある。その原因は、誰でもない自分で創っている。不幸になったときに、そのアラームに気づくことができればその不幸は二度と起こらない。否、正確にはその不幸は起こるが、本人が不幸だと感じないということ。不幸を克服した不幸は、不幸ではなく単なる「出来事」。つまり、不幸になっても不幸になっていないのである。不幸を受け入れられないと、不幸は続く。
本当の自分なのだ。新しいから、違う自分に出逢えた気がする。けれど、それは本来の自分。柵(しがらみ)を捨て、一からのスタートを切ると、「新しい自分」ではなく「本来の自分」と出逢うことになる。前進とは、原点に還ること。成長とは、自分に還ること。
下品だから群れているのだと、評価される。下品なのは、群れているのが理由ではなく、下品なのは、下品だからと決めつけれてしまうところが人間の怖いところ。論理ではなく、あくまでイメージで判断される。知らない人なら、尚更イメージでしか判断されない。「第一印象で判断してはいけません。」は、「第一印象でしか、判断できません」が真意。
悲劇のヒロインを気取って何が楽しいか。問題とよばれる問題を創り出しているのは、自分。周りが問題を引き起こしているのではなく、自分がその原因である。となると、問題が起こり騒ぐのは、正に自作自演のドラマに過ぎない。それに気づかないから質が悪い。一生気づかないまま逝ければ、それはそれで幸せな人生。
目が合わず、前方やや遠くの景色を眺めているのだ。歩き方ひとつで、その人の将来が表れる。ポケットに手を突っ込んで、下を向いて居歩いている人は、現実という自分に目を背け、過去を悔やんでいる。「やや遠くの景色を眺めているのだ」の歩き方は、未来の自分を「明らかに」眺めているということ。未来の自分とは、今の自分でもある。今を生きている人は、ちゃんと地に足がついている。
信用していない相手に対して、使うものだから。「信用しているからな。」←実は疑っている。「愛しているよ。」←実はそうでもない。言葉の裏には、「心」が潜んでいる。「心」とは、意思。←思惑とも。意思とは、意図。←その人がそうしたい願望。図られている。
友だちという、くくりは曖昧で完全なるグレーソーン。自分が思っていても、相手は思っていないかもしれない。ずっと友だちだったが、そうではなくなった。という、離脱が非常に簡単なもの。簡単なものだからこそ、なりにくいもの。結果的になるもの。
「名残惜しさ」=「また会いたい」振り返ってしまうと、旨みがなくなる。欲しいものをゲットするまでが、楽しいのであって欲しいものをゲットすると、楽しくなくなる。旨みを残してこそ、お楽しみが続く。腹八分目でまた食べたくなる。
ありえない。「それを言ったら、世間から見放される!」ということは、無い。「○ッ○―が、不倫!芸能人生もう終わったな。」当時はそう囁かれた。が今は・・・。芸能人がとんでもないスキャンダルを起こしても、復帰できるのは、支持者がいるから。好かれる量と嫌われる量の比率は、100対0にはならない。運命の人でも、100%好きになることはできないし、100%嫌いになることもできない。
そうするのが自然体のあなただ。変化しなければいけないと思っている人は多い。けれど、変化しようとしても、変化できなければ、それは正解。「三日坊主で終わってしまった。」「どんなに努力しても、結果が出ない。」それは、自分の遺伝子がその変化を拒んでいる。やらなくていいという、教え。
心で繋がっているわけではないようだ。データやログ上では繋がっていることになっているが、心では繋がっていない。人は目の前のものしか、心は開けないから。目の前の現実以外は、無責任である。簡単に離脱し、容易に参加する。それを知っているから、目の前の現実を受け入れる。どんなウソでも。
「独」りで「立」つことなのだ。独りで立つ究極は、「無人島暮らし」だ。誰もいない、何もない土地で生きていくことが究極の独立。仕事も同じく誰もいない、何もない土地で生きていくことができるか。起業後10年で、8割が倒産する世の中で、生きていくことができるか?無人島暮らしより、シビア。
本当はその問題を解決したくないからだ。あちこちに相談するのは、誰かに話して、現実逃避したいから。夏休みの宿題みたいに、「明日、明日・・・」と先延ばしにしているだけ。本当に解決する気があるなら、黙って自分でどうにかしている。「解決したい!」は「解決したくない!」=「今のままがいい!」ということ。「成功したい!」は「成功したくない!」=「今のままがいい!」ということ。
ができる。一度目の人生は、誰かの為の人生。二度目の人生とは、誰でもない自分の為の人生。二度目の人生を歩むには、「孤独になってありのままの自分と向き合う」とある。つまり、孤独になると、延命しようと、活性化する。ありのままでは、生きていけないから一皮ムケル。
不運をシャットアウトできるということだ。ゴタゴタに巻き込まれるのは、運が悪いからではない。自ら望んで、ゴタゴタに巻き込まれて運を悪くしている。真面目にゴタゴタに首を突っ込んでいる自分が原因。ゴタゴタは自分が解決する必要もないし、一過性のものだから放っておけばやがて、消失する。ゴタゴタからは、距離を置くことで自分の気分の低下を防ぐ。
ことは何だったか。特に意識していなかったのに、誰かから褒められたことはなかったか。それが、好きなことで成功できること。幼少から、20歳くらいまでは、経験や知恵もないから直感で動くことが多い。物事の好き嫌いもはっきりしている。その無意識で、夢中になったことが、好きなことで成功できること。成功は手の届くところにある。