お互いに能力を補うから、人生は楽しいのだ。全部自分でできてしまったら、人生はきっと楽しくない。相手という、どうにもならない存在をどうにかするのが人生の楽しみ。自分のどうにもならない部分を相手にどうにかしてもらう楽しさ。自分ですべて、できてしまったら、自分以外はすべていらなくなる。逆に言えば、自分も必要なくなる。
本当の自分の位置を探るのだ。今いる場所では、自分の立ち位置がわからない。別の場所に行くことで、別の自分が探れる。発見するというより、懐かしむに近い。それは、自分の存在が消えれば消えるだけ、新しい自分と出逢える。新しい自分とは、解放された自分。
あなたの両手が塞がっているからだ。両手を塞ぎたかったから、今、両手が塞がれている。塞ぐために、今度は捨てに行く。「何かを得て、何かを捨てる」というこの行為。生と死を表わしている。生まれてきたのは、死ぬためである。死ぬのは、生まれるためである。
何かを捨てに行くのだ。旅は何かを捨てに行くもの。旅が人生だとしたら、人生とは、「捨てるもの」である。人生が捨てるものだとして、人間の本能は、得るものばかりだから、本能に逆らうことになる。目的が、目的とは逆の意味になる。つまり、「目的はなし」ということでもある。人生の目的は「なし」ということになる。
何も場所だけではない。人のこともある。懐かしい人とは、「自分に懐かしい」ということ。「自分に懐かしい」とは、過去に出逢った誰かに投影している部分に懐かしいということ。つまり、懐かしいのは、「自分が捨ててきた部分」である。捨てたことで、ワンランク上に成長した。過去の自分の弱さに、懐かしさを感じた。
だということを、忘れないことだ。「お買い得」は、お客様にとってではなく、お店にとって「お買い得」「○○%off」は在庫処分に他ならない。「アウトレット品」は在庫処分に他ならない。一瞬、お買い得に見えて、お買い得されている。王様気分にさせて、実際は奴隷で働いてもらう。
間違いを受容して、そのまま身を任せてみるのだ。間違いは、単純に「ズレ」でしかない。ズレを修正する為の周囲の指摘。けれど、「ズレ」は世間からズレていただけであって本質からはズレていない。だからこそ、川の流れに身をまかせてみて結果を観察してみる。本質はズレていないからこそできる事。
間違いを受容して、そのまま身を任せてみるのだ。間違いを受け入れられないと、間違いを恨んでしまう。間違いを恨むとは、自分を恨むと同様。それでは旅は楽しくならない。そのまま身を任せることで、違った角度で見ることができる。「間違った角度」ではなく、「違った角度」なだけ。
ためには、自分が幸せであってはならない。今、幸せだから、幸せなものには実感がわかない。満腹なのに、まだご飯をおかわりするようなもの。それでは、美味しくもないし、ありがたみもない。足りている時は、足らないものを思い出させてくれるものがいい。一食抜いて、食べるのもいい。
ためには、自分が本当に不幸であってはならない。不幸な時は、幸せを感じることで、不幸が軽減する。そして、幸せの為に動き出す。幸せな時は、不幸を感じることで、幸せであることを、再認識させられる。そして、より幸せでいようと思う。人は、満ち足りると、感謝を忘れてしまう。感謝とは、再認識するもの。
どれだけプロセスを楽しめるかであり、どれだけその後の人生の糧にできるかである。結果だけを優先すると、その場を楽しめない。結果だけを優先すると、プロセスそのものがつまらない。結果が楽しいかではなく、プロセスが楽しいかである。むしろ、プロセスが楽しければ、結果なんてどうでもいいくらいである。よくよく考えれば、死ぬ瞬間以外は、すべてプロセスである。
どんなに忙しくても、全く苦にならないのだ。旅とは人生に置き換えられる。旅が最高のものなら、旅の準備が苦にならない。仕事が最高のものなら、仕事の準備が苦にならない。恋愛が最高のものなら、恋愛の準備が苦にならない。人生が最高のものなら、人生の準備が苦にならない。人生の準備とは、今ここにあるもの。
その場を心から楽しめばいい。たったそれだけで、人は幸せになれる。その場を心から楽しめないのは、ありのままを受容していないから。ありのままとは、鏡に映った自分ではなく、鏡から見た自分のこと。自分を見つめている自分のこと。たったそれだけのことができなくて、僕らは、悩み続けている。
相手の欲求を満たすことが、あらゆる仕事の本質。人間の行動すべてが、満たされないものを満たそうという動き。満たされないものを、満たしてくれた時、人は喜び、感謝する。男が女に求めるもの、その逆も。親が子に求めるもの、その逆も。社長が、社員に求めるもの、その逆も。空腹を満たそうという動き。
私は、「汎用性はないかもしれないけど、気づけるもの」が大好きだ。「汎用性とは、さまざまな用途に用いることができる。」ということ。つまり、「万人受けはしないが、ある一定の人種からは受ける」ということ。それは、どんなことかと言えば、「万人が見ていない部分を、見ている」ということ。同じものを見ていても、角度が全然違う。色彩も違う。そもそも、目のついている場所すら違う。
速くなる。背筋を伸ばすと、脳への血流が良くなり、同時に酸素が送られ、頭の回転が良くなる。なにより背筋を伸ばすと見た目がいい。背筋を伸ばすことはメリットしかない。もはや人生は、いかに背筋を伸ばすことができるかで決まる。背筋を伸ばす競争と言っても過言ではない。
楽しさと、健康を目的にしている。いくら体にいいと言っても、体が要求しないものは、精神的には健康ではない。この精神的に健康でないものはその人にとっては、毒以外何ものでもない。体に良くないものでも、体が欲していれば、良薬以外何ものでもない。その人の食事とは、その人の人生そのもの。安定はしているけど、楽しくない仕事で、我慢しながら生きるのも、その人の人生。体にはいいけど、おいしくないものを食べて我慢しながら食事するのも、その人の人生。
と感じない何かを、生涯かけてとことん磨いていくことが大切なのだ。「俺、頑張っているな」という自惚れは一生頑張れない。「この程度でいいの?」という世間とのギャップが自分の才能。頑張るとか、努力とかは、誰かが作ったドラマなだけ。やりたくて、やってしまっていること。気がついたら、やってしまったことが一生続けられる。
だけなのに、周囲からは「頑張っている」と勘違いされてしまうことだ。自分が没頭できることでも、天職とは限らない。傍から頑張っていると思われることが、天職とは限らない。天職とは、自分が没頭できて、且つ、傍からは、頑張っていると思われること。この2つが揃ってはじめて、天職と言われる。そして、それが継続することである。
を書いてきたが、頑張ったことは、ただの一度もない。頑張っていないから、できる。頑張っていたら、できない。成果は、頑張りでは、計れないから。頑張る時点で、すでに成果は出ない。頑張らずに、成果が出ることをやる。
ことだ。住む場所を変えると、否応なしに、人脈が変わる。住む場所を変えると、否応なしに、その土地の文化が変わる。住む場所を変えると、否応なしに、慣れない土地に緊張感が高まり生命力が漲る。その世界に強制的に飛び込むことで、強制的に習慣が変わる。「変わらなければならない」と自然に思えてしまう。
私は信頼している。時を刻む時計にお金をかけるということは、「時間にお金」をかけているということ。時間とは命。時間=命を重んじている人を信頼せずにはいられない。ポケットやバックからスマホを出して時間を確認する「時間」すらももったいない。時間はいつも自分の体と一体化させておく。
結果として夢の実現にも遅刻して、ご臨終だ。「夢に実現にも遅刻」思えば、夢の実現に遅刻していることばかり。夢の実現に遅刻していることにすら気がつかないかもしれない。思えば、人はいつだって死ぬ可能性がある。だから、今、夢が叶っていなければ、すべて「夢の実現に遅刻」していることになる。「夢の実現に遅刻」とは、裏を返せば、「人生が夢」であるということ。恐くも優しい言葉。
のと同じで、お金も動かさないと腐る。「お金はお金のあるところ」に集まると言われる。「じゃあ、お金を使わずに貯めておこう。」となる。今度は、「お金は使わないと腐る」という。どっちなんだ!?ではなく、どちらもお金の性質。ダムの貯水に似ている。
1日ゼロ時間労働とも言えるし、1日24時間労働とも言える。知恵で稼ぐ人間は8時間労働ではなく、無限時間労働。自由時間労働でもある。人生すべてが労働でもあるし、人生すべてが遊びでもある。体は、消耗するが、知恵は消耗しない。やればやるだけ、増えていく。
何かに挑戦することができない。不安定な場所から、不安定に挑めない。上に登りたいのに、不安定な場所で足場を作るのはどう考えても危ない。安定したいなら、安定した場所を作らねばならない。挑戦は一発逆転ではなく、積土成山。挑戦はコツコツ。
ではなく、あなたの好きなことを仕事にできるという話である。おいしい話には裏がある。というのは、もうわかりきったこと。それでもおいしい話に飛びついてしまうのは、自分がおいしい仕事をしていないから。他人にも話さないような、おいしい仕事をしていれば、他のおいしい話には、目もくれなくなる。おいしい仕事とは、今日の名言。「好きなことを仕事にできる」