かと言えば、強烈な劣等感を抱えているからだ。人は自分が満たされていないことに、激しく反応する。他人にそれが、垣間見えた時、激しく反応する。自分が満たされていれば、気にもならない。同じく他人にそれが、垣間見えても気づくことすらない。反応するのは、コンプレックスに思っているから。
おり、考えることは、自然の摂理に則っている。悩んでしまえば、それとなく解決した振りができる。解決はしていないが、それで満足してしまう。しかし、本当の意味での解決法は、「考える」ことである。それが間違っていたとしても、また考えればいいだけの話。迷路ゲームのように、間違っていたら引き返せばいい。そして、また自分で考えて進めばいい。この人生は、進むしか答えはない。
一緒に仕事する相手の為でもある。出世とは、影響力のこと。平社員の影響力と、部長の影響力は違う。部長と、社長の影響力は違う。自分が出世すれば、自分の周りにいる人に影響力を与えることができる。良くも悪くも。
傲慢というものだ。準備と結果は異世界のもの。準備は「人の手」で、結果は「プレゼント」プレゼントは自分で選べない。プレゼントを要求するのは、確かに傲慢。プレゼントは有り難く頂く。二伸)「the present」で「現在、現今」今の現実は、自分へのプレゼントということとなる。
同時にミクロの作業に命を懸けるのだ。マクロはミクロで成り立っていて、ミクロはマクロがあるから成り立つ。どちらが欠けても、成り立たない。マクロな目的があるから、ミクロな作業に命を懸けられる。ミクロな作業なしに、マクロは存在しない。ミクロとマクロの一体化。
なのだ。「事象というのは、起こるべくして起こる」「人間性を向上するために、起こる」これは、1つの考え方に過ぎないかもしれない。しかし、こう考えた方が、人生は楽しい。信じるとか、信じないとかではなく、自ら機会を創って、人生を謳歌する。人生のゲーム。
ことなのだ。仕事は、人生の3分の2を占める。否、仕事の為に休息するとしたら、人生のすべてが、仕事になる。人生の中に仕事があるのではなく、仕事の中に人生があるということ。もし、仕事の中に人生が見つからなければ、この世は生き地獄。もし、仕事の中に人生を見つけたら、24時間365日天国、
ようにする。8割の人は、2、3メートル先を見ながら歩いている。25メートル先を見ながら歩いている人は、全体の2割。25メートル先には、未来がある。2、3メートル先には、人の歩いた後がある。人の歩いた後は、精精、人のお下がり。
正解だ。続かないことを、克服しようとして続けるのは、不正解。続かないことは、本能が不要としている。逆にその手間を、続くことに費やす。続くことは、本能が必要としている。続けたいことを続けられ、意欲も沸く。すべてのベクトルが前に向く。
睡眠時間を確保できない働き方は、根本的に間違っているのだ。睡眠時間を確保することを前提で仕事をする。睡眠時間を削ってまでやらなければならない時もあるが、普段から睡眠時間を削らなければできない仕事は仕事ではなく、奴隷。「睡眠時間確保ありき」で、人生を構築する。人生の3割を占める睡眠をおろそかには、できない。人生の3割を充実させれば、残りの7割も充実できる。
その人の100%が評価されてしまうのだ。人間は100%を知りたい。現実的には100%を知ることはできない。しかし、1%なら知ることができる。つまり、意識は常に「何気ない1%」に向いている。うっかり見せた1%で評価する。
現状を破壊するのだ。本能は、「現状を維持」しようとする。本能に逆らうのは、とてつもない労力を要する。もはや、現状を「変える」というより、現状を「破壊」する勢いがなければならない。現状を破壊するとは、「選択肢を破壊する」ということ。自分の模範解答を破壊するということ。
なことなのだ。常識を考えていたら、夢中にはなっていない証拠。夢中の最中は、常識も世間体も建て前も逸脱した境地。そもそも、考える間もなく、その境地へと踏み入れることができるのが、「夢中」非常識な自分の行動が、夢中になっている証拠。非常識な自分に気がつくことなく、我に返る。
「無我夢中」この無我は、「常識を捨てる」という意。常識を捨てると、夢中になれる。常識とは、建前のこと。建て前を捨てたとき、夢中になれる。建て前があったら夢中になるのは、難しい。夢中とは、我を忘れている状態。否、我に返っている状態。
むしろ集中力という武器をプレゼントしてもらったことになる。「あの時もっと・・・」「この歳じゃもう遅い。」これは、「年齢に出遅れている」ということ。出遅れることは、すべてにおいて不利だとされる。しかし、ここは視点と角度を変えて、「この歳になったことで見える世界がある。」とする。出遅れ=挽回力
・今はお話にならない実力なのに、 自信が全身に漲ってくる。・それ以外の事は、目に入らなくなってしまう。・一生を捧げたいと、一点の曇りもなく思うことができる。・どこか自信がなく、・周りの目が気になって、・迷ってしまうというのは、天職とは程遠い。自信があっても、迷ってしまってしまうなら、天職ではない。周りの目は気にならないけれど、自信がないことは、天職ではない。迷いはないけど、周囲の目が気になる。それも天職ではない。周りから、「浮いている」と言われても気がつかない。それが天職。
ではなく、今この瞬間だ。人生とは、今この瞬間が金太郎飴の如く、続いていくものだ。未来は今の延長線上にはなく、今が未来そのもの。今が一番の未来だから、未来というものがあるとしたら、今やっていることが、自分の未来ということになる。将来の夢を、今やってしまえば、叶ったことと同じ。夢とは、逃げる場所ではなく、今、この瞬間が夢そのもの。そして、今、この瞬間が一番尊い。
その仕事は、あなたの好きなことではない。仕事とは、傍から見たら「面倒くさい」ものでしかない。けれど、自分からしたら、「楽しいもの」でしかない。つまり、その仕事が面倒くさいと感じたら、自分目線ではなく、傍目線確定となる。傍目線ということは、「仕事をやらされている」ということ。他人のレールなのに、「自分のものにならない!」と駄駄をこねている。
成功ではなく、プロセスを楽しんでいる。成功を目指していたら、挫折が気になる。成長を目指していたら、挫折は気にならない。成功を目指していたら、成功した時しか、楽しめない。成長を目指していたら、はじめから、おわりまで楽しめる。失敗も楽しめ、成功も楽しめる。
もともと根っこは同じものなのだ。スピードを追求すると、同じく量も追従してくる。量を追求すると、同じくスピードも追従してくる。そうせざるを得ないことの、根っこはすべて繋がっている。大事なのは、「出し切る」こと。出し切らないと、付加価値は追従してこない。
とわかるのは、ラッキーなことなのだ。今の場所が、幸せな人。今の場所が、不幸な人。今の場所が、幸せだと思いこんでる人。今の場所が、不幸だと思いこんでる人。「今の場所がわかる」とは、本音の自分にYESと言わせること。
を貪り読んでいるうちに、「もっとこんな活字の組み合わせができるのではないか?」と思うようになり、結果として今の仕事をやっているのだと思う。「もっとこんな組み合わせができるのではないか。」がこの世を進化させてきた。「こんな組み合わせにしたら、絶品料理ができた!」「こんな組み合わせをしたら、ハイブリットカーができた!」「こんな組み合わせをしたら、大人気アイドルができた!」「もっとこんな組み合わせが!?」は、夢中の中にある。
企画とは、どれだけ「ウケる」か考えること。雑用も必ず誰かの目につくので、「ウケる」ことを考える。料理人だったら、「この味付けだったら、ウケるんじゃないか。」を追求する。営業マンだったら、「このトークなら、ウケるんじゃないか。」を追求する。清掃員だったら、「この芸術的な清潔さは、ウケるんじゃないか。」を追求する。
のではなく、好きなことをしないから、ボケるのだ。好きなことをしていたら、間違いなく全身の細胞が活性化する。好きなことをしていなかったら、間違いなく全身の細胞が退化していく。好きなこととは、趣味でもなく仕事でもなく、遊びでもない。すべて、「ひとつなぎ」のもの。生きている意味みたいなもの。アイデンティティー。
大好きだから、忙しいという感覚はなし、大変だという発想もない。人生に夢中になっている人は、「努力」「忙しい」「大変」「がんばる」という言葉が無い。もう、議論の余地すらない。「好きだから、やっている」という自然の成り行き。それが人生になったら、最高の人生。「つらい」「給料が安い」「休みが欲しい」という概念のない世界。
夢中になれることから、逃げないことだ。夢中になれることから逃げないとは、夢中が目的になっている状態。夢中になりたい為に、手段に逃げている。夢中になりたい為に、手段が目的になっている。夢中になっている状態は、自分では気づけない。完全に入っているから、客観的には見れない。
それ以外は、なんとでもなる。自分が全部やる必要はない。自分で全部できるはずがない。自分ができることには、限りがある。自分が夢中になれること以外は、人任せでいい。自分が夢中にさえなればいい。自分の夢中と、他人の夢中が自然の摂理によって、噛み合う時がくる。
実技四科目は天才の分野。主要五教科は努力が報われやすく、「主」ではなく、「従」に特化している。実技四科目は努力が報われず、「従」でなく、「主」に特化している。主要五科目は、理性的で、実技四科目は、感性的。主要五科目は、努力して成果が出る。実技四科目は、楽して、成果が出る。出なければ、才能が無かったということ。