とでは時間を把握できるスピードが断然違う。アナログは、針の角度で瞬時に理解できる。デジタルは、数字の形がすべて同じなので瞬時には理解できない。コンマ何秒の差に過ぎないかもしれないが、僕らの生きているこの人生は、「コンマ何秒」からできている。その差が積もり積もって、時間を構築している。微差は、大差。
ということであり、自分に自信のない証拠だ。満たされていないと、満たしたくなる。何もないと、何かを生み出したいのが人間。自分に自信がないと、何かで埋め合わせしたくなるのが人間。それは、モノだったり、人だったり。しかし、モノや人は移ろいやすい。
善悪の問題はたいしたことではない。善悪は人間が創り出したもの。誰かにとっては善であっても、誰かにとっては悪である。善悪は、善でもないし、悪でもない。善とする人間がいて、悪とする人間がいるだけ。となると善悪は絶対的ではなく、相対的である。
努力をしながらも、それでも失敗してしまうようなことに挑戦し続けようとすることだ。「失敗しないように努力」していても、失敗してしまうことは、自分に無い部分。自分が想定できないことが、失敗という形になる。「自分に無い部分は、目には見えないので、それが視覚化する」という話。そこで終わらないのは、あきらめが悪いのではなく、潔い。全力を尽くした失敗に、本当の自分が潜んでいる。
思い込みのことだ。信念とは、信じて疑わないこと。自分の思い込みを信じて疑わないこと。疑うこともない、それが現実だと思っているから。疑うことはない、それが自分だと思っているから。信念とは、自分の有りのままの姿。
我慢しなくていいことを淡々と継続しているだけの話なのだ。我慢して継続するのではなく、我慢しないで継続できること。継続=我慢ではないというところ。「継続する」から入るのではなく、「継続してしまった」ことから入る。我慢すると寿命を縮めるので体は必死で拒絶しようとする。三日かけて止めさせようとする。
だが、時間は予め自然界に備わっていたものであり、絶対なのだ。お金が絶対なら、お金だけあれば、幸せになれるはず・・・だが、現実は違う。時間は資源であり、有限であり、お金であり、人生であり、命である。つまるところ、意味づけは人間がしているだけのよう。時間そのものの概念も人間が創り出した。自然の流れであり、淡々としている。無いとも感じるし、あるとも感じる。
逃げ回っていたことからは一生追いかけられる。問題は、道端に転がっているのではなく、自らが転んでいる状態。問題に直面した時、その問題は自分にとっての問題であって誰かに取ったら、取るに足らないことかもしれない。問題と思うのは、誰でもない自分。だから、場所が変わっても時間が経ってもそれは起こる。問題と向き合った時、それは問題ではなくなる。
バカだからこそ、成功できるのだ。バカとは、少数派の事を指す。少数でもなく、もはや希少で天然記念物級に扱われたバカの事を指す。そのバカは本当はバカではなく、誰も気づいていない部分に気づいている天才。有り得ないものを、有り得るものに変えていく第一人者が成功者。優秀と呼ばれるものはない。
良いと思ったことは即実行し、悪いと思ったことはすぐやめることだ。良いと思ったことは、即実行できないのが人間。悪いと思ったことは、即やめられないのが人間。「苦労はいつか実を結ぶのではないか。」「石の上にも三年。」とかを理由に、現状維持しようとする。現状維持こそ一番やりたくて、やめられないこと。人間の本能である現状維持こそ、一番の大敵なのではないか。
挑戦しないことだ。何もしなければ、失敗しない。失敗しないけど、楽しくはない。悔しさと、恥ずかしさを乗り越えて、成功した時の感動を味わえない。恥はかくけど、楽しい人生を選ぶか、失敗はしないけど、つまらない人生を選ぶかは、自分の好み。仮に失敗したとしても、恥をかく程度。命までは早々取られない。
とても会えない人に会えることもあるし、自分の財力ではとても出せないような経費を使って、大きなことにも挑戦できる。会社のブランドのおかげで、自分が成長できる。会社の為に貢献しておいて、自分にもちゃんとリターンがある。ズルい言い方だと、会社という環境を借りて、自分自身を成長させることができる。会社は、毒にもなるし薬にもなる。それは、自分の捉え方次第で。
で回っているのではなく、大衆の好き嫌いや気分で回っているという事実に気づかされるはずだ。人は、理論を理解したくない。感情を理解したい生き物。社会は理論で成り立たなければならないが、その社会を創っている人間は感情の塊。どんなものの根底は、感情によって成り立っている。感情で回る理論を理解する。
評価の対象になるのだ。締め切りを守ったところから、スタート。締め切りを守ったところから、相手にされる。どんなに優秀な作品でも、相手にされなければ、無いのと同じ。どんなに凡作でも、相手にされれば、一応存在を与えられる。締め切りを死守するのは、至って普通なこと。
バカが好き。自分より優秀だと、近寄りがたい。かと言って、とんでもなくバカだと、ついていけない。ちょっとバカだと自分の存在意義が確かとなる。何かしてあげたくなってしまう。だから、ちょっとバカのフリをする。
ただそれだけで魅力なのだ。仕事のスピードが速いのは、熟練が必要。けれど、仕事に取り掛かるスピードが速いのは、誰にだってできる。モタモタも考える必要もない。すぐに取り掛かればいい。成功するか失敗するかは、結果が出してくれる。
よく考える人なのだ。「考える前に、行動」と言われる。この人は、行動が先だから考えていないと思われる。しかし、行動が先だと結論がすぐ出るので、また行動し、考え、行動し・・・とサイクルが早くなる。結果、考える数が増える。失敗しても、成功しても、実はどちらでもいい。目の前の結論に対して、どう感じ取ったかが重要。
の結果として、ダメになったのだ。ダメな決断をして、ダメになったのなら、単純に反対の解答をすればいい。少なからず今より、ダメではなくなる。決断とは、自分のセンスであり、何かの答えではない。ダメな結果とは、自分の理想と自分のセンス(感覚)に食い違いがあったということ。お手軽に自分のセンスを磨くには、読書がある。
不幸になっていったものだ。いい人は、いい人ではなく、いい人のフリをしている。フリである以上、長くは続かない。フリは世間であって、自分ではないから。周りも、いい人のイメージがあるから、いい人が自分を出そうものなら、総叩きに遭う。誰かにとっていい人ではなく、自分にとっていい人になる。
あげまんのおかげ。男は、女を喜ばせたい本能の塊。女は、自分を喜ばせたい本能の塊。女は愛を与えることで、自分を喜ばせる。男はひたすらに愛に値する男となる。女はひたすらに愛を与える女になる。シナジー効果で成功する。
ということだ。モテない人とは、本命にモテないことだ。1番手から100番手にモテる状態を「モテモテ」ではなく、1番手にだけモテる状態を「モテモテ」と呼ぶ。2番手から100番手に「モテモテ」はない。1番手だけにモテていれば、「モテモテ」本命はいつだって一人。人生は選べることより、選ぶことのほうが尊い。
本当に清々しいものだ。年齢とは、ただの記号に過ぎない。あなたは、20でわたしは50。ただの記号を世間の指標に置き換えるのは、ナンセンス。20でも濃く生きていれば、50と同様の実力。50でも薄く生きていれば、20と同様の実力。皆、同じ世界には生きていない。
それ自体が幸せなことなのだ。平凡は非凡を味わった者にしかわからない。非凡は平凡を味わった者にしかわからない。ずっと平凡ならそれは、平凡とも思わない。ずっと非凡ならそれは、非凡とも思わない。平凡でも幸せを感じることができる。非凡でも幸せを感じることができる。
あなたの鼓膜から、脳に深く浸透して、人生を操縦していく存在だ。言葉の力が、人に及ぼす影響は大きい。他人に発した言葉は、他人に届く前に、自分を通過する。他人に発しているようで、自分に発している。「どうして、こんなこともできないんだ!」と上司が部下に説教している。できないのは、部下ではなく、上司。「上司がバカでやってられない・・・」バカなのは、上司ではなく、部下。
反する行為だからである。つまらない相手とは、「その人にとってつまらない人」誰かにとっては、居心地はいいが、誰かにとっては、居心地が悪い。人のウワサではなく、自分の事実。自分の事実は自然の摂理に則ている相手に事実はない。
める。「将来、本を書く」と決めるのは、夢の印税生活を送るためではない。「将来、本を書く」と決めると、今を生き抜く力になる。起こったことすべてが、本のネタとなる。嫌なことでも、ネタになる、嫌なことほど、ネタになる。どんでもないことも、ネタになる、とんでもないことほど、ネタになる。人生をゲーム感覚で、プレイできる。