食後のデザートは、ことに気づくことだ。常識だと、当たり前だと思っていることが、正解から大きく逸脱していることがある。その常識は誰かに刷り込まれたものかもしれない。一度自分を俯瞰してみることで気づく。みんながバカ真面目にやっていることは、俯瞰したら、笑えるかもしれない。もちろん自分も笑われている。
断言できることは、するものは、あなたに向いていないということだ。どんな理論より、自分が欲するもの。どんなデータより、自分が欲するもの。どんな常識より、自分の欲するもの。どんな言葉より、自分の欲するもの。この世は、自分の中の世界。
両面を兼ね備えているのが、カフェインなのだ。完璧な食材がない以前に、完璧な考えと理論はない。食材も考えも、用途として扱う。作用の裏側には、副作用が存在する。どんなものも、取り扱い注意。出た事実だけが、正解。二伸)事実に基づいて、理論が成立する。完璧な理論は思考を停止させる。
遥かにダメージは多いのだ。ドカ食いした後の眠気と倦怠感は空腹の苦痛よりつらい。健康を害して、さらに気持ちまで下がってしまう。食べ過ぎて、後悔する。けれど、お腹が空くとまた食べてしまう。食べ過ぎた時の後悔を忘れてしまう。そしてまた食べてしまう・・・後悔する。欲は、記憶を無くす。
人生が変わることは多い。「NEBAならない」で苦しんでいる人はたくさんいる。それは「NEBAならない」は、誰かにとって都合のいいものだから。「NEBAならない」は本当は、「DOTIRADEMO」かもしれない。「NEBAならない」と叫んでいる人ほど、やりたくてやっている。「NEBAならない」は、自然界には存在しない。
食に対して感謝がなくなるということは、おいて感謝がなくなるということに他ならない。人は今の状態に感謝しにくい。足りなかったら足りなかったらで、感謝できない。満たされていたら、満たされていたで感謝できない。「当たり前」だと思うから。当たり前でなくなった一瞬だけ、感謝できる。満たされていたら、足りない時を思い出すと感謝できる。足りない時に、満たされている時を思い出すと、感謝できる。
体が求めてもいないのに無理に食べるのは、「超過は不足よりも罪が重い」ということは、「過食は節食よりも罪が重い」となる。足りていない状態というのは、良くなっていくベクトル。過ぎている状態というのは、悪くなっていくベクトル。どちらも偏りではあるが、ベクトルが真逆。
インスタント食品や、ファーストフードの栄養素が劣っているか否かよりも、否かの影響が大きい。インスタント食品は、感謝もインスタントしている。ファーストフードは、感謝もファースト。人は、「お手軽」に対して、感謝が軽薄になる。能率化、効率化は素晴らしいが、感謝を感じさせない。「手間暇かけてくれた」という感動もプレゼントのうち。
もし迷ったら、ことだ。「3食食べるのはやめなさい」「炭水化物抜きダイエット」「朝は食べるべき」理論は正しいが、それは誰かにとっての理論。理論の正誤問題ではなく自分の成否問題。自分が食べたければ、食べるのが自分にとってはいい。食べたくなければ、食べないのが自分にとってはいい。理論は自分で立てるしかない。二伸)本能に赴くまま食べて体を壊すこともあれば、本能に赴くまま食べずに体が元気になることもある。
その人が好きなものだからである。その人が好きなものは、元気になる食べ物。「トマトは体にいい」「ブロッコリースプラウトは肝機能改善の・・・」「納豆の酵素は・・・」けれど、自分の体にとって一番いい食べ物は、その人の好きなもの。偏食さえ気をつけておけば毎日食べてもいい。気持ちが元気になることが、先決。
良質な水。人の体は、「水分」 「たんぱく質」 「炭水化物」 「脂質」 「無機物」で構成されている。中でも「水分」はその7割も占めている。人間の体は、ほとんどが水分。7割を置き去りにして、3割を考えられない。かと言って3割の為の、7割でもない。10割の為の、3割と7割。
仮に学校や会社でどんなに凹むことがあっても、食事に興味があるということはということだ。どんな日であっても、おいしいものを食べた瞬間に忘れられる。空腹を満たすだけで、心も満たされる。人間に与えられた究極の現実逃避。それが食事。誰にとっても娯楽になる。
どんどん試してきた。いいと思ったら、やってみる。やってみるとは、試してみるということ。いい結果が欲しいわけではなく、「こうやったら、ああなった」という問題と答え。自分の体で試すことで、貴重な一次情報を得ることができる。いい結果だけど、続かないこともある。
であり、自然界は淡々とバランスを取ろうとしているだけなのだ。自然界に人間も含まれるとしたら、人間も常にバランスを取ることになる。人間そのものに、善悪という判断をつけられないと言える。人間がこしらえたルールで幸せになれないのは、人間が自然物であるから。善悪で解決しようとすること自体がオコガマシイ。自然の摂理に任せればいい。
すべての問題を原因の原因である真因まで追求していくと、そこにはという事実が浮き彫りになるのだ。人は、感謝を忘れる生き物。感謝を忘れると、問題が発生する。問題が発生すると、感謝を思い出す。それでも尚、感謝を忘れるのが人間。感謝を頭ではなく、体で感じさせようとする働きである。
隠し事をするためではないか。もしも、夜が存在しなかったら・・・見たくないものを、見なければならない。夜に有利なものが、存在できない。闇を知ることができない。見られない、知られない部分があるからこの世はオモシロい。見えなくなって、見えるものがある。
挨拶というのは、力関係を発生させる。「先に言ったもの勝ち」というものがある。先に言ったことで、印象に残る。先に言ったことで、自分が糸口になれる。先に言ったことで、通ることがある。仮に間違ったことを言っても、先に言ったことで、一目置かれる。
すこぶる前向きな行為だ。どこへ行っても、ウトウトしていると、悪人扱いされる。ウトウトはネガティブなイメージだったから。しかし、ネガティブどころかポジティブだと言う。ウトウトしたら、記憶の勉強ができる。ウトウトしたら、仮眠して頭をリセットできる。
逃げるのではなく、のだ。眠らないことから、逃げるのではなく、勇気を出して眠ってしまう。眠ることが負けではなく、眠らないことが負け。不眠不休は美徳ではなく、「不眠不休しているから大目に見てね」という卑しさがある。ならば、しっかり寝てしっかり勝負する。逃げ道を絶つのは、自分でやること。
憶える勉強は、心身が疲れ気味の寝る直前に。つまり勉強は「いつだってできる」ということ。「今日は疲れているからできない」「眠いから効率が悪い」というのは、言い訳。朝から晩までできるのが勉強。朝から晩までやってしまうのが真の勉強。眠気も疲れも吹き飛んでしまう勉強が真の娯楽。
朝勉は自己実現の為。自己実現は永遠に満足できない。自己実現は、実現しないと満足できない。仮に自己実現したら、次の自己実現の為に不満になる。自己満足は、実現しなくても満足できてしまう。仮のもので満足できたら、それでいい。
が背中を押してくれる。朝は、時間の終わりを意識できるが、夜は、時間の終わりを感じられない。終わりを感じられないと、終わること自体を目的としてしまうのが人間。終わりを意識できるということは、目的を意識できているということ。目的が定まれば、それに向かっていくだけ。目的がないということは、裏を返せば選択肢があり過ぎるということ。それこそ、終わること自体を目的としてしまう。
朝の活動or夜の活動を比べてみると、やはり朝の活動に軍配が上がる。人間が生身の体である以上、夜にはエネルギーが不足してくる。朝は睡眠で充電されたエネルギーが満ちている。朝日を浴びることで、得られるメリットもある。同じ行動でも、朝は「特訓」と呼び、夜は「居残り」と呼ぶ。
「将来の為にやったほうがいいこと」に取り組もう。自分の好きな職種に就いていても、会社組織に所属していれば、ほぼ自分の好きなことはできない。会社組織の人間として、やらなければならないことがあるから。やらなければならないことは、大概誰もがやりたくないもの。そんなやらなければならないことが、始業前に終わっていたらそれは可能になる。将来の為=自分の為のやりたいことができる。
ダントツで重要なのは、決定権者の思い込みであり、権力とは、影響力であり、影響力とは、効力であり、効力とは、作用である。物事が決定権者の好き嫌いで決まるのは、作用の一環でしかない。雨が降れば、大地が濡れるように、風が吹けば、波が高まるように、作用の一環でしかない。自然の摂理である以上、則るのが一番早い。則るとは、自ら自然でいること。
スポーツ選手に限らず、長く現役生活を送るということである。「臆病」だから弱いのではなく、臆病だからこそ、対策を講じる。臆病でなかったら、行き当たりばったりでいつか負けてしまう。臆病者は、戦略家。臆病だから、強くなれる。臆病だから、何か穴埋めしたくなる。